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時に生かされる

もうすぐ平成が終わる。

メディアや街中で「平成最後の…」という言葉を聞くと、なんとも意図的な感動物語や商業臭さを感じてうさんくさく思う時の方が多いのだが、それでも私はけしてこの元号というものは否定的には思っていない。新しい年に変わるとか、新しい月に変わる時というのは、なんとも言えずすっきりとした気持ちになる。それまで過ごしてきた日々をすべて清算するように、また1からやり直せるような気持ちになるのだ。

元号というものは、良くも悪くも日本のそれぞれの時代の空気感を強く反映している。ほぼ昭和の末端生まれの私は、昭和の残り香をじんわりと感じつつ、若かりし日々のほとんどを平成という時代の中で過ごしてきた。正直なところ、これまで何度も「私はどうしてこんな国の、こんな時代に生まれてきてしまったのだろう…」と考えた事が何度もある。もちろんこの時代で良かったと思うこともたくさんあるし、時代それぞれで大変だった部分は必ずあるだろう。戦争の時代に生まれた人はなおさらだ。しかし、平成という時代ほど、人と人との間に分厚い壁ができた時代はないのではないか。『心の戦争の時代』。平成とは、そういう時代だったのではないか。

人は必ずしも強く繋がらなくてもいいと私は思っている。ゆるくあたたかく繋がりつつも、個人としてはバラバラに生きるのが私の理想だ。しかしこの国のこの時代は、それを許してくれない雰囲気がある。この人は親友とか、あの人はただの知り合いといった具合に、自分の中で“囲い”を作って安心できる心の場所を作るのではなく、1歩外に出てたまたま出会った人、すれ違った人、そこにいた人すべてが友達と思えるくらい自由に、心の柵を外して生きていければいいのにと思うし、それが許される社会になればいいのにと思う。

きっと多くの人が、この時代に息苦しさを感じているのだと思う。「息苦しい」とは「生き苦しい」でもある。この時代に違和感を持って、なんとかしようとしたことは多々ある。「日本を変える」なんてそんな大それた事ではなく、本当に小さな個人のレベルで。日々を心豊かに生きるとか、人との繋がりを大切にするとか、そういう事。しかしそれでも、どうしても抗えない時代の波に翻弄されて生きていることを感じる。

それはきっと私だけではなく、少なからず多くの人がこの時代に違和感を持っていて、大なり小なりなんとかしよう、なんとかしたいと思っているのではないか。みんながなんとかしたいと思っているのに、なんともできない。それがきっと、“時の力”というものなんじゃないか。それでもなんとかしたいと思っている人たちの想いが集まって、メリメリッ…メリメリッ…と、本当に見えないくらい少しずつ、この国を覆っている透明な分厚い天井にヒビを入れている。そんな気がするのだ。

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“時”というものには、不思議な力があるなと感じることがよくある。“時代”というものの中にそれぞれの空気が閉じ込められている事ももちろんだし、個人のレベルでも、“時”の中にどうしようもなく抗えない流れがあると感じることがよくある。

年が明けてからの1ヵ月、私の心は大荒れだった。3才の息子は全くお昼寝をしなくなったことに加えて、0才の娘は絶賛甘えん坊期で3秒たりとも離れられない。結果、家の中でも外でも常に娘を抱えながら、こちらもまだまだ甘えん坊の息子からは常に「母ちゃん母ちゃん」とお呼びが掛かる。そこに加えてはじまったインフルエンザに気力と体力を奪われ、直った後も再度の感染が怖くなり、子ども館等の人が集まる場所へは行けなくなった。結果人に会うことは全くなく、やりたい事や行きたい場所はほぼ諦め、お出かけと言えばスーパーかお散歩くらいの日々を過ごしていた。そりゃ病むわ、と、こうして自分で書いていても突っ込みたくなる。

しかし不思議と、月が明けて2月に入ると気持ちが落ち着いてきた。数日間だけ実家に帰省したり、友達に会ったりしたことが大きい気がするけれど、それ以上にやっぱり時の流れが大きい気がする。

物事がうまく行かない時に、私はついジタバタしてしまう方だ。「時が解決する」とどこかで思っていても、やっぱり無駄にあがいてしまう。しかし事態が収まって、振り返ってみるとやっぱり、時が解決してくれているのだ。そういう時に「あぁ、時に生かされているんだなあ」と感じる。

この平成という時代が、心の戦争という意味で、日本の元号のドン底の時代であってほしい。

ー あんな時代もあったねと、いつか笑って話せるよ ー

中島みゆきの歌のように、そう願いつつ、次の時代に希望を託して。

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