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「生産しなくちゃ」の焦燥から逃れたい。


文章を書くのは昔から好きだ。


小学生の頃、貯めていたお年玉で中古のパソコンを手に入れた。Wordでひたすら物語を書くことにハマっていた。物語はいずれも長編で、同時に4つほど書き溜めて、それを他の誰に見せるでもなく、自分で見返すのが面白くてたまらなかった。

自分の小説の中に当時好きだった男の子のことをキャラとして入れたり、現実では起こり得ないことを組み込んだり、書いている瞬間は夢を見ているようで、恐らく妄想することが好きだったんだろうなと思う。




ただ、書くことが苦痛になる瞬間が増えてきた。

学生時代に毎日書いていた趣味のブログは、社会人になって滞った。
でも会社の仕事のほかに「何か」をやらなければ私は取り残される気がして、常に「何か」を生み出さなければ無価値のような気がして。

書くことが楽しくてひたすらWordと向かい合っていたあの頃の自分にはもう会えないと感じる。

noteを書くときには「誰か」の為になるような話題でなければいけないのではと思ってしまうし、
でもだからといってそれが書けている自信もない。八方塞がりのような気持ちになる。


noteを書いている人たちはみんな文章が上手で、読みやすくて、「ふーん」と思う記事も多くて、こんなまとまった文章は自分には書けないなと思う。

新しい媒体と出会ってそこに入ると、今まで自分が書いてきた、自分だけの世界とはうってかわって、大海に放り出されたカエルの気持ちがよぉ〜く分かる。

カエルになった自分は海で泳ぐこともしないで、ただじっと周りを見ているようになった。目を向けるとそこにはサメやらクジラがゴロゴロいて、自分のようなちっぽけな存在の認識さえしないのだ。


「生産しなくちゃ」と思っていると、自分はカエルなのにサメやクジラを目指して自分らしくない文章を書かなければいけないと思う。そんなことを考えて、ウジウジし始めておよそ1年ほど経ってしまった。


で、いくら考えてもカエルはサメになれないし、クジラにもなれないんだと改めて感じたのである。


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「生産する」ことが正義になってしまった。

世間では好きなように生きたらいいと言われているのかもしれないけれど、「生産者」は日の光を浴びているし、「消費者」は「まだ消費ばかりしているの?」とひそひそ声で揶揄される。

「生産者」がいなければ、もちろん世界は枯渇し、革命なんて起こせなくなるけれど。「消費者」がいないと生産者は存在価値がなくなるのだ。

だって現実に、生産者の数が消費者を上回ったら、数のバランスがおかしくなるではないか。

もちろん時期によって生産者になる時もあれば、消費者になることだってあるだろう。自分がずっと生産者側でいなければいけないという意味のない呪縛からは解き放たれてもいいのではないかと感じた。



カエルはカエルらしく、自分の池に住んで、たまにアメンボと会話して、のほほんと暮らしてもいいんじゃないか。

みんながクジラになる世界を目指さなくてもいいんじゃないか。

大海を知らずとも、自分のペースで大人のカエルになれたらそれでいいよね。


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