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ー6ー 私の夜逃げ。

家を出たいと思った私が助けを求めた先が、  例のNPO法人のRさん。

私は布団に潜り込んだまま母に聞かれないように小さな声で事情を話した。Rさんが手助けをしてくれるとのことで、日時を合わせた。

私はとりあえずの荷物を詰めて、近くのマクドナルドでRさんと合流した。私は家を出た。まずNPO法人の事務所が敷地内にある、

東京タワーが見えるような都会の、教会の方が管理している部屋に少し滞在できる事になった。

彼の家に逃げ込む選択肢もあったのだが、Rさんに諭された。「それは得策ではない。」と。更に火種を増やしてしまうかもしれない。まだ冷静さがあった私は教会の方にお世話になった。

それから、法人内のフィリピン人の方が母を説得し、通訳をしてくれながら事務所内で何度も話し合いの場が設けられた。今思うと母子の間に通訳が入るなんて笑える話だ。

話し合いの最中に母が感情的になってくるとサポーターとして通訳してくれている方が間に入り、私には分からないタガログ語で話して母をなだめていた。母もタガログ語を話しながら、時折私を指差す動作が見られ、私は何を言われているのか分からない事が不安だった。

母との話し合いは難航した。気付けば夏休みが終わり、私は教会の部屋から学校へと通った。勿論、定期は無い。自費で払った。

「いつまでも教会の部屋には滞在できない。」と言われ、Rさんより児童相談所に行って話を聞いてもらい、児童養護施設に入るか、高校生でも(保証人がいなくても)入れるライトハウス(DVを受けた人などが逃げ込めるシェルターのような所)で一人暮らしをするかの2択を迫られた。

やはり私は彼と一緒に居たかったのだが、それを口にするとRさんより「母子の関係のことだから。」と説得され私はライトハウスに入る事を選択した。

当時の私は児童養護施設に対してよく知らず、入所すると自由に携帯を使えなくなってしまうのではないか、と思っていた。それに、入所したとしても居れるのは高校卒業までだと思っていたのだ。(大体はそうであるが…)それなら、とライトハウスを選択した。

土日を利用して私は都心部にあるライトハウスへ場所を移した。保証人が不要な分と立地的にも、家賃はそれなりにかかる。月々8万ほど。プラスで水光熱費も自分で支払う。私はライトハウスを出た後でも返済する事を約束し、入居した。(後に大学生の時に全て支払いを終えた。)

学校へ行くのに随分遠くなり、通うのに必死だったし、何よりバイトが出来なかった。たまに金曜の夜に彼の家で寝泊りし、バイトをして日曜にライトハウスに戻る、という生活を送った。

初めての一人暮らしだが、自分のことは全て自分で出来た。洗濯•掃除は勿論、食費の事も考えて自炊もした。都心部のスーパーは何処もかしこも何かと物の値段が高かった。

初めて水光熱費をコンビニで支払った時には「生きるのってこんなにお金がかかるんだ。」と感じ、大人になった気がした。この経験は現在の一人暮らしにも役立っている。

気付けば季節は秋になり、冬に差しかかりそうになっていた。夏休みに家を出た時はまさかそんな長丁場になるとは思っていなかったので、冬物を一切持ってきていなかった。NPO法人でバザーの売れ残りで何とか長袖は持っていたが、それだけでは凌げなくなっていった。

私は何とか勇気を出して母に電話し、冬物を取りに行きたい旨を伝えた。そして指定された日時に私は自分の家に鍵を差し込んだ。が、ドアチェーンが掛けられていて入れなかった。母が気づきドアの隙間越しに何かを言われたような気がしたが覚えていない。一旦ドアが閉まった。

当時住んでいたアパートは構造が面白く、アパートなのだが中に階段があり、二階建ての構造になっている。ドアが閉まってドアチェーンを外してくれるかと思いきや、共用部分に面している2階部分の窓が開いた。

そして、あろうことか母は2階から共用部分の廊下に向かって、私の荷物を投げて落としていったのだ。最初何が行われているのか理解できなかった。

ボトボトと私の物が落ちてくるのを見ながら、 何とも形容しがたい絶望感を感じた。

持っていくのに距離がある為、必要最低限のみを厳選したかったのに、母はほぼ全ての荷物を落としていったのだ。私には家に入る資格さえ与えられなかった。そして、こうも感じた。”私の帰る場所は無くなった“のだと。何とも形容しがたいでしょう?母との関係修復の先が見えなくなった。

私はとりあえずリュックや袋に無造作に突っ込まれた服たちを駐車場の隅へ運んだ。量がありすぎて2回に分けて往復して運んだ。そして彼に頼み車で来てもらい、彼の家で厳選し、残りは彼宅へ置いておいてくれることになった。ありがたい。

高校卒業間近頃になって、やっと母は話し合いの場で前向きになってきた。私の話を聞いてくれるようになってきた。私は大学に進学したいが、手続きにあたって必要な書類の中に、母の印鑑や署名等が必要なものもあり、それも応じてくれるようになった。

私は進学にあたり、入学金30万円など自分では払えなかったので、免除してもらえるよう、必要な書類と小論文を書き送付した。合格し、免除された時にはホッとした。奨学金の手続きや申請も自分で行った。母は私の進学にあたりお金を1円も出してはくれなかったし、私も頼りたくはなかった。

高校の仲間に夏休みからこれまでの全ての事情を話した時は、皆私の事を応援してくれた。北海道の大学に進学した部活の先輩は、じゃがいもを送ってくれたりしてくれた。幸いなことに私は高校時代の友達にとても恵まれていた。

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