社会派ではないけれど

2006年12月27日


勝手な話題で恐縮です。

「名張毒入りぶどう酒事件」は皆さん報道でご存知でしょう。
名古屋地裁で再審開始決定を覆す判断。
「疑わしきは被告人の利益に」
とは有名な法理念です。

被告人が罪を犯したか、その証明に疑問の余地がある場合、裁判官は無罪を言い渡さなければならない。

たとえ十人の犯罪者を逃しても、一人の冤罪も作ってはならない。

そのための大原則だ。


「刑法学」での教授の力説でした。
一昨日は4人の死刑執行報道。
現在は100人前後の死刑確定者がいるらしい。

神ならぬ人間が人間の命を奪う危うさ。
冤罪のないことを祈ります。




EU加盟国を始めとして死刑制度廃止の流れは世界的な傾向ですが、我が国では厳然と法が運用されており、私がこの場で日本の死刑制度をとやかく言うものではありません。
法律があるのですから、その法に依って裁かれるのは当然のことなのでしょう。
最近も、二ヶ月足らずの間に六名の死刑確定者の刑が執行されました。
罪状と判決文を見ればその残虐さは筆舌に尽くし難く、制度としての法がある以上はやむを得ないことだと思います。
執行書命令書にサインと押印をして最終決定を下すのは法務大臣ですが、大臣がすべての死刑確定者の罪状を精査できるはずもなく、おそらく官僚が書類を上げているのでしょう。
宗教上の理由から任期中の執行を拒否した大臣もいましたし、安倍政権下で10名の執行命令書にサインした前法務大臣や、現大臣の鳩山さんのように積極的な運用を進める人もいます。
重罪には厳罰をもって臨む。
犯罪抑止力としての側面もありますが、多発する最近の凶悪犯罪報道に接する限り、その効果はあまり期待できないように感じます。
人間としての正常な判断が出来ないからこそ人を殺めるのでしょうし、強行に及ぶ時は「死刑」などとは考えていなかったのでしょう。

「山口母子殺人事件」の被告人も、検察の控訴を受けて初めて罪の重大さに気付いたような印象を受けました。
犯した罪相応の償いは必要です。
『当然死刑だよ』
『いや違う』
私の周囲の意見は割れています。
国民感情はともかくとして、被害に遭われた方やご遺族のお気持ちを察すると、極刑は有り得るのかなとも思いますし、私刑が禁じられている以上、直接、加害者に報復することは出来ません。
そのための「死刑制度」です。

もうかなり前のことですが、国民の多くの人がこの制度を支持していることを踏まえて何冊かの本を読んだことがあります。
法によって裁かれるからには、裁く人も当然いるわけです。
裁判官や法務大臣はもちろん、実際に刑の執行をする刑務官もそのひとりです。

日本の処刑方法は絞首刑ですから、死刑確定者を刑場へ連行して目隠しをする人、手足を緊縛する人、首にロープを掛ける人(首の部分は皮製だそうです)、そして踏み板を開いて死刑確定者を落下させるためのボタンを押す人…。
仕事とは言いながら、この人たちは自らの手で人の命を断つ作業を行なっています。
法を順守するため、そして、
『当然死刑だよ』
と吐き捨てる国民に代わって刑務官は人の命を断つのです。
個人的な怨嗟はないのですから気分の良かろうはずはありません。
言い方を変えれば、国民の負託を受けた「嘱託殺人」ということになります。

まもなく「裁判員制度」が始まります。
死刑執行の報に接した時、このような作業を行なわなければならなかった人がいることに想いを巡らせることも、現行法や人間の命を考える一助になるのではと考えました。
「殺人を犯した罰として死刑を行なう」
根本的な矛盾を内包しながら、現行の死刑制度はこれからも存続運用されて行くのでしょう。

先日の中国の報道ですが、収賄の罪で死刑判決を受けた高級官僚に対して、十数日後に刑の執行があったと聞きました。
一審制とはいえ、これほど素早い運用は社会主義国特有のものなのかも知れません。
殺人を犯さなくても死罪になる国が存在する事実は少々驚きです。

日本でも迅速な裁判は誰もが願うところですし、時としてあからさまな「引き延ばし戦術」を駆使する事案もあり、制度の虚しさを覚えることもあります。
しかし何冊本を読んでも、ネットでどれほど調べても、私の気持ちは定まりません。
やがて、定まらない私の気持ちの根底に存在するものの実態が視えて来ました。

たとえ十人の犯罪者を逃しても、一人の冤罪も作ってはならない。

私の思いはこの大原則に回帰します。
「富山事件」や「志布志事件」はあまりにも強烈でした。
「志布志事件」に関して鳩山さんは、検察側が控訴を断念して12人の被告全員の無罪が確定したにも関わらず、
『冤罪と呼ぶべきではない』
と発言し、後に訂正しています。(謝罪ではない)
官房長官の町村さんは定例会見の折、記者からの『法務大臣に注意しますか』の質問に、
『子供じゃないのだから、いちいち申し上げません…』
と子供扱いし、答えた時のうんざりした表情が印象的でした。
前官房長官の与謝野さんも、
『閣僚のつまらない発言を止めることだ。中にオッチョコチョイがいて言葉の意味を知らないで使ってヒンシュクを買っている』
と内閣支持率低下を嘆き、鳩山さんを批判していました。
『友人の友人がアルカイダ』と発言し、後で『誤解を招いた』と謝罪したことも記憶に新しいところですが、どうにも困った大臣のようです。

「たとえ一人の冤罪を作ったとしても、十人の犯罪者を捕まえた方がはるかに治安が良くなる」という過激な意見もあるかも知れませんが、それは法理念から大きく逸脱した考えです。
肉親の名前を書いた「踏み絵」で、有りもしない自白を強要されたのが「志布志事件」です。
恐ろしいことですが、誰にだってある日突然、火の粉が降りかかる可能性はあるのです。

そして「名張毒入りぶどう酒事件」です。
一審の津地裁では無罪。
状況は何も変わらないにも関わらず、二審の名古屋高裁では有罪判決。
確たる物証も無く、証拠は捜査段階での自白が中心です。
もちろん真実は本人以外に知る由もないのですが、検察、弁護、双方の主張を読み比べれば、自ずとその実態が視えて来ます。
無罪なのか、それとも有罪なのか、もう一度審理を尽くすべきではないかと考えました。
しかし、その再審の道を裁判所自らが閉ざしてしまったことを危惧します。
「裁判員制度」
我々も心して臨まなければなりません。

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