レクイエム

高校時代の、ある事故を思い出しました。

三年の秋だったでしょうか。
私は中学時代からのガールフレンドと、日曜日に銀座でデートしていました。
その途中、山野だったかYAMAHAだったか忘れましたが、モーツァルトのレクイエムのLPを買いました。
デートを終えて帰宅したのが午後九時。
ほぼ同時に友人から電話が入りました。
「ニュース見たか?」
「見てないけど何だよ」
「天野が死んだぞ」
「え、どういうことだ?」
クラスメイトの天野が郵便局のビルから墜死したのだと知りました。
その後、級友から数本の電話があり、少しずつ事の詳細がわかって来ました。
午後、京橋郵便局の六階で窓拭きのアルバイト中にバランスを崩して落下、地面に叩きつけられたらしいのです。
すぐに病院へ搬送されたものの、そこで死亡が確認されたそうです。
彼がそんな危険なアルバイトをしていることを、クラスの誰も知りませんでした。

翌朝、登校すると、それぞれが新聞の朝刊を持参して見せ合っています。
どの新聞も社会面で大きく取り扱っていました。
(朝日新聞だけ記事がありませんでした。ネタ落ちなのか、報道の価値がないと判断したのかはわかりません)
内容はどの新聞も一緒で、
「母子家庭の男子高校生、アルバイト中に墜死」
テレビニュースも、内容はほぼ同じだったようです。
いくら待っても本人が登校して来ないので、現実を受け入れざるを得ません。
母子家庭であることも初めて知りました。
思い返してみれば、普段からあまり自分のことを語らない男で、誰に聞いてもそれは同様です。

担任が教室に入って来ました。
いつものように出席を取ります。
五十音順なので、天野の名前は必ずトップに呼ばれます。
ところが担任は天野を飛ばし、
「石川、伊藤、井上、上原、宇津木、梅原…」
と進めます。
出席を取り終えると、担任は簡単に事故の概要を説明し、
「明日の告別式には全員で天野のお宅に伺う。○○(私)が弔辞を読んでくれ」
と私に顔を向けました。
少し抵抗しましたが、クラス全員が、
「一番仲が良かったお前しかいないだろう」
衆議一致でした。

確かに仲は良かったのです。
彼はいつもアルトサックスを持ち、昼休みの講堂や校庭の片隅などで、よく私に聴かせてくれていました。
私も吹かせてもらいましたが、リードの感触がつかめず、かすれた音しか出ませんでした。
それでもサックスの魅力は充分に伝わり、わからないながら、彼の演奏は、高校生としてはかなりの水準に達していたと思います。
コルトレーンを教えてくれたのは彼でした。
ただしそれらの付き合いも、あくまで校内だけでのこと。
思えば放課後はいつも悪友とつるんでいた私は、彼のことを、本当は何も知らないことに気付きました。
かといって、彼がクラス内で浮いていたわけではなく、誰とでも冗談も言い合うし、下ネタなども率先して連発します。
だから、それこそどこにでもいる、明るく健全? で、クセのない平均的な高校生だったのです。
私はクラスメイトの一人として、一番彼と親しかったという程度の関係でした。
抵抗した理由は、そんな薄い部分だったと思います。
しかし誰もが認めるところなので、教室を見回せば、弔辞を読むのは私が適任なのだろうと納得しました。

翌日、学校から集団で、足立区にある彼の家へ向かいます。
もちろん、誰も彼の家は知りません。
おそらく担任は、前日の通夜で弔問を済ませていたのでしょう。
我々は担任の後をゾロゾロと付いて行くだけです。
東武伊勢崎線の竹ノ塚駅から、かなり歩いて着いたのは、伊興本町という、初めて訪れる町でした。
今では舎人ライナーなども通じて便利なようですが、当時はかなり不便な町、という印象だけの、静かすぎるほど、のどかな土地です。
しのびやかに小春日の影を踏んで、彼の家の前に立ちました。

トタン屋根の、とにかく木造の古い平屋で、間取りは二間だけのようです。
家の周囲には背の高い雑草が茂り、お世辞にも、褒めるところに窮しそうな家でした。
屋内は開け放たれているものの、暗くて室内を窺うことが出来ません。
それでも全員で焼香を済ませ、弔辞を読み上げます。
前夜、原稿用紙で二枚程度の文章を用意していました。
敷地が狭いので、ほぼ路上での弔辞です。

彼との思い出を述べ、続いて急逝した無念さをしゃべり始めたとたん、屋内から突然、
「ヒィー」と、お母さんの大きな嗚咽ともつかない慟哭が聞こえました。
その叫びを聞いて体が凍りつき、言葉につまりました。
それに誘発されたのでしょう、クラス全員がハンカチを取り出しているのが視界に入りました。
私も読み進めながら、涙が滲みます。

当日の記憶はここで途切れ、どう帰ったのか、それとも学校に戻ったのか覚えていません。
「弔辞で泣かせるなよ」
「お母さん、可哀想だったな」
級友たちの言葉だけがよみがえります。
「お前がレクイエムを買ったのは、きっとお前の中で何かが作用したからじゃない?」
「そんなレコード買うからだよ」
「それにしても暗示的だね」
私が能天気にデートしていた銀座から、現場は目と鼻の先。
歩いても10分とかからない場所です。
それに、レコードを買った時刻が、彼が亡くなった時刻とほぼ同じだったということもわかりました。
屋外にいれば救急車のサイレンが聞こえたかもしれない、現場からはその程度の距離でした。

あの時のお母さんの嗚咽が耳から離れず、数十年経った今でも、はっきり思い出すことがあります。
母一人、子一人の、典型的な母子家庭。
我々とつるみもせず、おそらく彼は家計を助けるために、休日のバイトを続けていたのでしょう。
学校のある平日でさえ、放課後はすぐに下校していたので、毎日がバイト浸けだったのかも知れません。
都立高校でした。
最近では公立高校の授業料無償化の話題もにぎやかです。
あの時代、そんな制度があれば彼の家庭はどうだっただろう、彼が元気に今も生きていれば、どれほどお母さんは心強いだろうと、意味のない「たられば」を考えます。
誰もが進学する中で、彼は数少ない就職コースの一人でした。

大切な一人息子を亡くしたお母さんが、現在どこでどうしていらっしゃるのかは不明です。
命綱をつけるなどの安全対策は今では当然のことですが、当時の報道では、その一番の問題を指摘する新聞はまったくありませんでした。
時代がそうだったと片付けるのは簡単ですが、後追い記事も一切ありませんでした。
卒業アルバムには彼が写っています。
おそらく、彼の最後の写真でしょう。
亡くなる一週間前の撮影だったと記憶しています。
いま改めてアルバムを確認すると、クラスの中でただ一軒、彼の家には電話がなかったことに気付きました。
最近はケータイも過度に普及して、一人で数台持つ人も珍しくもないのに、当時は固定電話にすら加入することもままならない家庭もあったのです。

あれから幾星霜、気の遠くなるほどの月日が流れました。
能天気にデートしていたそのすぐ近くで、家計を助けるためにバイトをしていた級友。
18歳で死ぬのもひとつの人生、子を先に失うのも悲しく残酷だけれどひとつの人生、こうして中年になり、彼を回想して今でも心が塞ぐのも人生。
人間の一生とは、そして神の采配とは、ずいぶん理不尽なものだと、深いため息が漏れます。

彼が亡くなった日に買ったレクイエム。
誰かが不幸になるのが怖くて、買った当日に一度、針を落としただけです。

いくら検索をかけても、当時の事故はおろか、彼の名前すらヒットしません。
詳細を確認するには、図書館で新聞の縮刷版を見るしかないようです。
このnoteを、彼、天野晴幸(享年18)へのレクイエムとして終わりにします。

今から、二度目の針を落とします。

モーツァルト《レクイエム》「怒りの日」カラヤン指揮/ベルリンフィル https://youtu.be/Opwq0C0hjOg









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