ウィニーは死を免れたのか?/かもめマシーン『しあわせな日々』

 「言葉」というより「音楽」を聴いているようだった。第一幕はドラムのセッション、第二幕は野太い(あるいは極く繊細な)管楽器のごとく、ことばと身体が鳴り響く。ことばと身体が一種の“ビート”となって、空間を満たしていく。
 かもめマシーンによる『しあわせな日々』の上演では、安堂信也・高橋康也訳ではなく、長嶋確による新訳が採用されたことでことばが意味の重みから解放され、ことばの音=リズムのつらなりが前景化された。ベケットの(原語の)テキストを注意深くみると、韻を踏んでいるとまではいわないまでも、ことばの音(リズム)のつらなりが巧妙に仕組まれ、戯曲のことばが緻密に配置されていることがわかる(そのことは萩原自身、『紙背』4号〔山﨑健太編集〕所収の演出ノート「2018年の『しあわせな日々』のために―場所/身体/政治/その他―」のなかで指摘している)。長嶋訳では、そのベケットのテキストが本来持つことばの音=リズムを効果的に引き出すものとなっている。そして、ことばが身体から発せられるものである以上、ことばのリズム(性)は身体(の動き)と必然的に連動する。萩原演出においてたびたびウィニーが歌のような節をつけながらことばを発したり、金属板でつくられたウィニーの埋まる山(丘)を手で鳴らしながらある時は早口でまくしたてるように、またある時はことば(単語)をひとつひとつ切るようにことばを発したりするのは、ベケットのテキストが元来持っていることばと身体のリズム(性)をいっそう際立たせる効果があっただろう。長嶋確の新訳が、意味に偏った従来までのテキスト(翻訳)に対するひとつの応答だったとすれば、萩原による演出(そしてウィニーを演じた清水穂奈美の演技)は、ベケット(のテキスト)本来のことばのリズム=音のつらなりと身体との連関を回復させたといえる。

 ところで、劇中においてウィニーはいったいどうしてあんなにも“独り言”を際限もなく喋るのか?『しあわせな日々』という作品に対してだれもが思い抱くであろう問いだが、ひとついえるのは、おそらくウィニーが喋りつづけるのには、ウィリーというもう一人の“他者”の存在が不可欠だろうことだ。
 詩人の大岡信はことばの特徴について次のように語っている。「人が単独で地上に突如出現したとしたら、その場合には、言葉というのはありえなかったでしょう。言葉は少なくとも二人以上の集団の中でしか発生もしなかったし、存在もしなかったはずです。」(大岡信、『詩・ことば・人間』、講談社文庫、1985年、125頁)。
 ウィニーのことばは一見だれにともなく(だれがいようがお構いなく)“独り言”を喋りまくっているように思えるが、実際にはウィリーがいる(いた)からこそ、彼女は喋りつづけている―つまり、ウィニーのことばはつねにウィリー(他者)に向けられているのだと考えられる。実際、ウィニー自身第一幕で「ただあなたがそこで聞いててくれるってわかるほんとは聞いててくれなくてもそれだけが必要なの、ただあなたが声の届くところにいてくれるもしかしたら耳をそばだてていてくれるって感じるそれだけが大事なの」と語っているし、第二幕では不在のウィリーに何度も呼びかける。
 ただあなたが声の届くところにいてくれるもしかしたら耳をそばだてていてくれるって感じるそれだけが大事なの―この態度はとても切実だ。実際、現実の問題として、自分の声がだれにも届いていないと感じる、あるいは実際にだれにも届かないことで追い詰められてしまうというケースはいまの社会において枚挙に暇がない。ただ、少なくともウィニーは喋ることができている。ウィリーという“他者”が存在する(あるいは存在を想定する)こと―だれかが自分の声が届くところにいてくれていると感じられていること―で、ウィニーはまだことばを根こそぎ奪われてしまってはいないわけだ。あるいは、ウィニーの“独り言”はひとつの“抵抗”であるのかもしれない(“抵抗”としての“ビート”、あるいは“抵抗”としての“モノローグ=対話”〔“モノローグ/対話”ではなく〕)。そこにはどこか(倒錯的な)希望のようなものがあるようにも思えてくるし、そもそも「対話」というものが成立し(得)ない状況のなかでそれでもなおことばを発しつづけるとはどういうことか、という問いに対するひとつの“態度=身振り”のようにも思えてくる。

 一方で、ことばはいつまでもそこに留まることはできない。大岡信は他の箇所で次のように語っている。「言葉というのは、それを発する人の肉体とともに過ぎ去るものである。時間性をもっているものであって、言いかえると発せられるにしたがってどんどん滅びていく」(大岡信、前掲書、141頁)。
 ウィニーが何度もくりかえす“昔っぽい”ということば(台詞)は、あらゆるものは過ぎ去っていくことを(半ば無自覚に)言い表しているようにも思えてくる(それはもちろん、自分自身のことばや肉体も含めて)。実際、第二幕においてウィニーの身体は首の下まで埋まってしまうわけだが、それに呼応するようにかつての膨大なことば(祈り)は葬り去られ(第二幕で彼女が発する「昔は祈った。〔…〕いまはもう。だめだめ。」という台詞は、第一幕が祈りではじまり祈りで終わることに対応している)、動くことも喋ることもできない(「もうなにもできない。なにも言えない。でも言わなきゃいけない。ここが問題。いえ、動かなきゃ、なにかが、この世界で、わたしはだめ」)。そう考えると、ウィニーを覆う山(丘)は過去のことばの塹壕のようにもみえてくる。かもめマシーンの上演では、ウィニーの埋まる山は金属板でつくられており、身体を動かすたびに鈍い金属質の音が発生する。その音はどこか、過ぎ去っていながらも過ぎ去ることができない(=腐らない)ことばや身体を象徴しているようにみえてくる。かつて自分自身が吐き出した膨大な量のことばたち、叩くと鈍い音が反響する、そのような金属的な音だけになったことばたちの残骸。残響。それらは不動・不朽のようにみえながら、決定的に過ぎ去ってしまっている(「ずっといまと同じ自分だった―でも昔とはちがっている」)。朽ちていく=過ぎ去ることを運命づけられているにも関わらず、腐ることが(でき)ないというのはなんとも皮肉だが、その皮肉こそがベケットの、そして萩原の狙いであったのかもしれない。つまり、膨大なことばの残骸とともにいつまでもそこに在りつづけてしまうという不条理。

 では、けっきょくのところ、ウィニーは死んだのか?
 ぼくはなぜか『しあわせな日々』という作品はウィニーが最後に死ぬ話なのだと長らく思っていた。いったいいつどのようにしてそう思い込んだのかいまとなってはわからないが、ただ、身体がどんどん埋まっていくというのはどこか死んでいくことの比喩のようにも受け取れるし、また実際、劇中に何度か登場するピストルによって死のイメージが作品に付与されてもいる。ウィニーが第二幕で何度も目を閉ざすのも、どこか彼女の死を予感させもする。では、ウィニーははたして死んだのだろうか?
 先述した『紙背』所収の演出ノートのなかで、萩原は俳優が舞台上に「存在する」ことに関して、次のように述べている。

舞台上に上がった俳優に対して観客は、即座に「誰なのか」「何を目的としているのか」という眼差しを向けてしまう。そして、そんな視線にさらされる俳優自身もまた、自分の身体を役割や行為、目的へと向かわせようとしてしまう。それは、意図の伝達というメリットを生むけれど、同時に、身体のある全体性を縮減させるという負の側面も有する。それによって、人間存在としての「重さ」が失われる。(山﨑健太編集、『紙背』4号、2018年、264頁)。


 次に引用する詩人の蜂飼耳のことばは、この萩原のことばと対応しているようにみえる。蜂飼は、規定された言葉と詩(文学)のそれとを比較しながら、次のように述べている。


意味の指示に終始する、用件ばかりでふくらみのない言葉はやがて死へ向かう言葉だ。目的や結果という、言葉そのものから離れた先のことを目指す言葉は、そのまま先へ先へと、いつでも少し先の成果を求めていく。その先には、さらにまたその先には、いったいなにがあるのか。死だ。まぎれもなく、個人の死がある。あるいは、種としての死も。(蜂飼耳、『現代詩文庫201 蜂飼耳詩集』、思潮社、2013年、131頁。)


 規定された意味や目的を目指す身体=言葉は死へ向かう―であるならば、ウィニーはきっと死を免れたのだ。かもめマシーン上演の『しあわせな日々』において、ウィニーのことばと身体は意味から解放され、一種の”ビート”を手にしたのではなかったか。ウィニーの身振りは死へ向かう身振りなのではなく、死から免れるための身振りでなければならないのだ(“抵抗”としての“ビート”、あるいは、ことば=リズムの“反復(覆)”からの/としての“反転-転覆”)。『しあわせな日々』とは、死にゆく人間(あるいは社会)を描いた作品なのでは決してなく、どうしようもない状況のなかで死から逃れることを描いた作品、萩原自身のことばを借りれば、「この絶望的な世界を、絶望的なことを認めながら希望へと転覆させてしまうような野蛮さ」を秘めた作品なのだと、この上演をみて気づかされた。だからこそ、次のひとことで締めくくらなければならないだろう―「またしあわせな日になりそう!」Oh this is going to be another happy day!

かもめマシーン『しあわせな日々』@The CAVE
2019年2月8日~11日
公演情報:https://www.kamomemachine.com/next-performance

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