見出し画像

親でない人をひきとった話。 第2話

タカコさん本人や母から聞いた話以外ほぼ手がかりがないので、それを元に綴っていこうと思います。
この話を届けたい人もおりますのでフルネームとはいかなくとも誹謗中傷と解釈されないよう気をつけながら適度に名前を出して、少しでも届けばと思っております。
タカコさんは昔、私の祖母と満州から引き上げてきた後、紀伊半島の最南端にある串本という町で暮らしていました。
後に祖母は祖父と結婚し、2人の長女である私の母が誕生します。
祖母は1人、祖父は3人の子連れだったため、私の母は5人家族の末っ子のような状態。
これを聞いただけでも母は相当肩身が狭かっただろうと思います。
そんな中、1人優しくしてくれたのが親子ほど歳の離れたタカコさんであり、本当の姉のように慕っていました。
やがてタカコさんは結婚し、1人の女の子、ヨシコさんをもうけますがお姑さんとうまくいかず離婚し、1人で大阪へ出て就職します。
大阪でヒサオさんと出会い、プロポーズされた時に離婚歴があり、串本に置いてきたヨシコさんのことを打ち明けましたが、そういうのもひっくるめて死ぬまで俺が面倒見たる、と言ってくれたと、ヒサオさんが亡くなった後、タカコさんが話していました。
私が子供の頃は毎年お盆と年末年始はヒサオさんとタカコさんが大阪から来て一緒に過ごしていました。
私の下の妹が生まれた時は私が大阪にお泊まり旅行に行くこともありました。
おそらく子供3人抱えて大変な母を気遣ってのことだったのでしょう。
大阪で花博が開かれた年、西中島南方から新大阪駅近くに引っ越しました。
花博に行く時は泊めてもらいました。
ヒサオさんとタカコさん夫妻には子供がいないので大事にしてあげるように、私は母からずっと言われ続けていました。
1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災発生時は自宅内で地震にあい、特に何もなかったと、その日の夜に連絡がついた時に聞きました。
ヒサオさんは明け方まで西宮市の阪神甲子園球場近くの現場で作業をしていて、帰宅後朝ごはんにしよう、という時だったそうです。
そして半年後、私の母校が夏の甲子園に出場が決まり、当時高校生の妹が電話をするも繋がらない。
何度も何度も・・・・・

最後までお読みいただきまして誠にありがとうございました。
これはあくまでも私の体験談です。
この体験がどなたかのお悩みのヒントにでもなれば幸いです。
もし参考になりましたら、スキ❤️をお願いいたします。
フォローもお待ちしております。





よろしければサポートをお願いいたします。 いただきましたサポートはクリエイターとしての活動費用として使わせていただきます。