アンリ・ミュルジェール『ボヘミアン生活の情景』第6章:ミュゼット嬢

(凡例はマガジンのページをご覧ください)

ミュゼット嬢は容姿に恵まれた20歳の娘で、パリに来て間もないうちから、すらっとしていて愛想よく多少の野心はあるが綴字のあやしい美人のたどる道をなぞっていた。しばらくはカルチェ・ラタンの夕食に華を添えてくれた、いつも実に瑞々しい声で、音程は正確でないが、たくさんの民謡を歌ってくれたから、韻律を磨き上げる職人藝を称えて、以来ミュゼット嬢と呼ばれるようになったのだ〔ミュゼットはバグパイプの一種で、フランスの田舎舞曲に使われる〕、ところが突然アルプ街を去って、ブレダ地区のシテール島〔エーゲ海の島、アプロディテに縁をもつ愛と快楽の島とされる〕めいた邸宅街へと移り住んだ。

たちまち粋人に名が通り、しだいにパリの新聞や石版画商の絵に載るほど有名になった。

だがミュゼット嬢は周りの娘たちとは異なっていた。もともと優雅で詩的な性格であり、真に女性らしい女性が皆そうであるように、贅沢とその快楽が好きだった。美しく気品あるものを何でも欲しがる性向で、庶民の娘でありながら、どんなに高貴な豪華絢爛の只中にいても全く居心地の悪さを感じなかった。しかしミュゼット嬢は若くて美しかったから、自分ほど若くも美しくもない男の愛人に甘んじることはなかった。ショセ=ダンタン街のペルー人と呼ばれる大金持ちの老人からの立派な贈りもの、ミュゼットの思いつきにひれ伏して作られた金の階段を、断ったこともあった。知恵も機転もあったから、相手の年齢や肩書や名声が何であろうと、馬鹿や間抜は嫌いだったのだ。

つまりミュゼットは気風よく麗しい娘であり、シャンフォールの有名な警句「愛とはふたつの気まぐれの交わりである」〔Chamfort, Maximes et pensées, n. 359〕を半ば受け入れていた。それに、当代の色事を穢すような恥ずべき取引が先に立つ関係を持つことはなかった。自ら言っているとおり、ミュゼットは正々堂々と勝負し、その誠実さに対して金を払ってくれるよう求めるのだった。

ただ、強烈で率直な徒心が、熱愛にまで至るほど長続きすることはなかった。それに、むら気があまりに移ろいやすく、言い寄ってくる男の財布や身なりにはさほど注意を払わなかったので、生きかたもまた移ろいやすく、青いクーペの馬車から乗合馬車まで、中二階の部屋から6階の部屋まで〔下の階ほど高級〕、絹の服から麻の服まで、いつも揺れ動いていた。なんと魅力的な娘だろう!よく響く笑い声と楽しい歌声の、生き生きとした青春の詩よ!情に厚い心が、胸当ての隙間から皆にときめいている、ああミュゼット嬢!ベルヌレットやミミ・パンソンの妹のようだ!青春の花咲く小道を駆ける無邪気で奔放な姿を正しく描くにはアルフレッド・ド・ミュッセの筆が必要だろう〔ベルヌレットもミミ・パンソンもミュッセの作品のヒロイン〕。おそらくミュッセも、ぼくと同じように、君の調子外れの美声で、君の好きな田舎舞曲の一節を聞いたら、君を称えたくなるだろう。

ある春の日のこと
わたしは恋に落ちた
栗毛色の髪に
キューピッドの心
きれいな白頭巾を
蝶のようにかぶった娘に

これから話す物語は、奔放に生きた魅惑の蓮っぱ娘の、人生で最も素敵な逸話のひとつである。

ある若い政府高官の愛人をしていたとき、鷹揚にも財布の紐を任されていたミュゼット嬢は、週に一度、ラ・ブリュイエール街にある邸宅の美しい小さなサロンで夜会を開いていた。それはパリで開かれている多くの夜会と似ていたが、面白い違いがあって、場所がなければ他人の膝の上に座るし、ふたりでひとつのグラスを使うこともしばしばなのだ。ロドルフはミュゼットの友人であり、友人でしかなかった(どうしてかはふたりとも分からなかった)から、友人である画家のマルセルを連れてきてよいかと尋ねた。才能ある若者で、未来がアカデミー会員の服を縫っていると言い添えた。

「連れてきて!」ミュゼットは答えた。

ふたりでミュゼットのところへ行く夜、ロドルフはマルセルを迎えに家へ寄った。画家は身支度をしていた。

「えっ、社交場に色つきのシャツで行くのか?」ロドルフは尋ねた。

「しきたりに傷をつけるかな?」マルセルは落ち着いて聞いた。

「傷つけるかって?流血ものだよ、情けない」

マルセルは猟犬に追われる猪たちの柄のついた濃い青のシャツを見つめながら言った。「困ったな!他には持っていないよ。ああもう!仕方ない!襟でもつけるか。メトシェラ〔創世記に登場する伝説的な人物。969歳で死んだとされ、聖書のうちで最も長生きした〕のボタンを首まで留めれば、下の服の色は見えないだろう」

「何だって!またメトシェラを着るのか?」ロドルフは心配して尋ねた。

「そうさ!必要だからね。神がお望みだ、それにわたしの仕立屋も。ボタンも新しいもので揃っているし、何度も黒絵具で塗りなおしてある」マルセルは答えた。

メトシェラというのは単にマルセルの服のことである。そう呼んでいたのは、衣装箱の中で最古参だったからだ。メトシェラは4年前の最新モード仕立だが、耐えがたい緑色をしていた。しかしマルセルは灯火の下なら黒に見えると言い張った。

5分経って、マルセルは身支度を終えた。悪趣味そのもの、人前に出るへぼ絵描きの姿だった。

カジミール・ボンジュール氏〔復古王政期に流行した劇作家。アカデミー・フランセーズ会員に何度も立候補したが入会できず、しだいに冗談の種となっていった〕がアカデミー会員に選ばれたときでさえ、マルセルとロドルフがミュゼット嬢の家に着いたときほど驚きはしまい。というのも、ミュゼット嬢は少し前に愛人の政府高官と仲違いし、見捨てられて苦境に陥っていたのだ。借金取りと家主に責められ、家具は差押えられて中庭に運び出され、翌日には接収されて売られることになっていた。そんな事態になってもミュゼット嬢は来客を置き去りにしようとは少しも思わず、夜会を中止しなかった。中庭をサロンのように重々しくしつらえ、敷石に絨毯を広げて、すべて普段どおり用意し、もてなし役の装いをして、ささやかな宴に住人たち全員を招いたから、その華やかさに神様も光を添えてくれた。

おふざけは素晴らしい成功を収めた。ミュゼットの夜会はかつてないほど熱気と陽気に溢れ、運び屋が家具や絨毯や長椅子を取りに来て一同を立ち去らせるまで、皆が踊り歌っていた。

ミュゼット嬢は歌いながら全員を見送った:

いつまでも語るでしょう、ラ、リ、ラ
木曜の晩のことを
いつまでも語るでしょう、ラ、リ、リ

マルセルとロドルフだけが残っていた、そしてミュゼットが部屋に戻るとベッドしかなかった。

「ああ、これは!早くも前途多難ね。星の美しい宿〔野宿のこと〕に泊まらないと。その宿のことなら知ってるわ、おそろしく風通しがよいの」ミュゼットは言った。

「ああ、もしプルートス〔ギリシャ神話の福の神〕のような力があったら、ソロモン神殿〔ソロモンが7年かけてエルサレムに築いた神殿〕よりも美しい御殿をあなたに差し上げるのですが……」マルセルが言った。

「あなたはプルートスじゃないわ。ともかく心づかいをありがとう……」そして部屋を見渡しながら言い足した。「ああ!ここはもう飽きたのよ、家具も古かったし。半年近く住んでいたわ!でも、まだ事が済んでいないのよ、宴の後に軽い食事でも、そのつもりじゃなかったかしら」

「据膳に垂涎」マルセルが言った、とくにに朝は駄洒落癖がひどいのだ。

ロドルフは夜のランスクネ〔カードゲームの一種、15~16世紀に傭兵としてフランスに来たドイツ歩兵が流行らせた。ドイツ語のランツクネヒト(Landsknecht、傭兵)から〕で幾らか儲けていたので、ミュゼットとマルセルを開店したばかりのレストランに連れて行った。

食事を済ませた3人は、帰って寝る気も起きず、田舎で一日を過ごしたいという話になって、鉄道駅の近くにいたので、発車間際の列車の先頭に乗りこみ、サン=ジェルマンで降りた。

一日じゅう森の中を駆け回り、ようやく夜7時にパリへ戻ったが、マルセルは不満顔で、まだ12時半のはずだ、暗いのは曇ったからだと言い張った。

宴の夜とそれに続く昼のあいだに、一目で燃え上がる黒色火薬のような心を持つマルセルは、ミュゼット嬢に惚れてしまい、はっきりと言い寄ったのだ、そうロドルフに言った。この美しい娘に、自分の有名な「紅海渡渉」の絵〔モーセが海を割ったという出エジプト記の故事を描いた絵。この絵については第16章「紅海渡渉」で語られる〕を売った金で前より立派な家具を買い直してやるとまで申し出ていた。この藝術家は別れの時が来るのを苦しく思っていたが、ミュゼットのほうは、手や首筋といったどうでもよいところには接吻させたものの、心の中に無理やり入り込もうとすると、そのたびに優しく押し返すだけだった。

パリに着き、ロドルフが友人と若い娘を残して去ると、娘は藝術家に玄関まで送ってくれるよう頼んだ。

「会いに来てもよいですか?あなたの肖像画を描いてあげたいんです」マルセルは言った。

「あら、住所は教えられないわ、明日にはいなくなるでしょうから。でも貴方のところへ行きますよ、そして服を繕ってあげましょう、ただで引越せそうなくらい大きな穴の開いているから」美しい娘は言った。

「救世主のごとくお待ちしています」マルセルが言った。

「そんなに長くは待たせないわ」ミュゼットは笑いながら言った。

「何と素敵な娘だろう!歓びの女神だ。服には穴をふたつ開けておこう」マルセルはのろのろ歩きながら言った。

30歩も行かないうちに、肩を叩かれるのを感じた。ミュゼット嬢だった。

「ねえマルセルさん、あなたはフランスの騎士でいらっしゃいますか?」

「もちろん。ルーベンスと淑女、それが信条ですから」

「そう、それなら、わたしの苦しみを聞いて、情けをお寄せください、高貴なる御方」少しばかり文学をかじったことのあるミュゼットは言った、もっとも聖バルテルミの虐殺〔1572年にフランスのカトリックがプロテスタントを大虐殺した事件〕のようにおぞましい文法だったが。「大家が部屋の鍵を持っていってしまって、今は夜の11時でしょう、お分かりになって?」

「分かりますよ」マルセルはミュゼットに腕を貸すと、花河岸にあるアトリエへと連れて行った。

ミュゼットは眠りに落ちるところだったが、マルセルの手を握ってこう言うだけの力はあった。

「約束したことを忘れないでくださいね」

「ああ、ミュゼット!可愛いお嬢さん、あなたは救いの修道士の家にいるのです、安心してお休みください!わたしは行きます」藝術家はちょっと感動した声で言った。

「どうして?恐がってはいないのよ、あなたを信じているから。それに部屋はふたつあるし、わたしは長椅子で寝るわ」ほとんど目を閉じながらミュゼットが言った。

「長椅子は固すぎて寝られませんよ、砕いた砂利も同然です。わたしの部屋で寝てください、わたしは近くに住んでいる友人のところに泊めてもらいます。そのほうが間違いないでしょう。普段なら言ったことは違えないんですが、わたしは22であなたは18だ、ああミュゼット……。じゃあ行きます、お休みなさい」

翌朝8時、マルセルは市場で買った鉢植えの花を持って部屋に戻った。ミュゼットは服を着たままベッドに飛び込んで、まだ眠っていた。物音で目を覚ますと、マルセルに手を差し伸べた。

「まじめな方!」

「まじめな方って、馬鹿なやつってことじゃないですよね?」マルセルは答えた。

「あら!どうしてそんなことを言うの?感じがよくないわね。意地悪を言わないで、その綺麗な鉢植えをくださいな」ミュゼットは答えた。

「ということは、これをお持ちしたのも喜んでもらえたのですね、では受け取ってください。それから、一泊ぶんのお返しに一曲歌ってくれませんか。屋根裏部屋の響きがあなたの声を幾らか覚えていて、あなたが去ってからも聞かせてくれるでしょう」

「あら、そう!でも、わたしを追い出したいってこと?もしわたしが出て行きたくないと言ったら?お聞きなさい、マルセル、わたしは自分の考えをくどくど言いたくはないの。あなたはわたしを楽しくするし、わたしはあなたを楽しくする。これは恋ではないけれど、きっとその種粒みたいなものよ。だからわたしは出て行かない。ここに残るわ、あなたのくれた花が枯れないかぎり」ミュゼットは言った。

マルセルは叫んだ。「ああ!今日にも枯れてしまうでしょう!こうなると分かっていたら造花にしたのに」

ミュゼットとマルセルは2週間前から同棲し、しょっちゅうう金欠になりはしたが、世界一甘美な生活を送っていた。ミュゼットは藝術家に今まで出会った情熱とは全く別物の優しさを感じていたが、マルセルは自分が恋人を真剣に愛していないのではないかと疑うようになっていった。ミュゼットのほうがマルセルに首ったけになるのを恐れていることも知らず、マルセルは花が枯れたらふたりの関係も終わるからと毎朝その様子を眺めては、いつも新鮮なのを納得しかねていた。しかし間もなく謎が解けた。ある晩、目が覚めたとき、隣にミュゼットがいないのに気づいた。起き上がって部屋を駆けると、夜ごとに寝たのを見計らって恋人が花に水をやり枯れないようにしていることを知ったのだ。

(訳:加藤一輝/近藤梓)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?