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心と身体に同時性を持たせる言葉

心と身体は高確率でバラバラだ。
思うのに言わない。
書くけど行動に移さない。
怒っているのに笑い、楽しいのに顔を曇らせる。
有るものを、いとも簡単に無きものにしてしまう。

そんな心と身体に同時性(synchronize)がない状態は負担がかかるのか、心身の不調につながりやすい。
一致させる必要はないけれどシンクロするように、心と身体を同時に使えたらいいのだろうなぁと思う。

「難しい問題だよね」と思うことと口にすること

心で思うだけでなく、身体を用いたときに初めて、何かがつくられる。
だから「創作」に携わると、心と身体を同時に使うという目標は自然と達成されやすい。

NHKが2010年に放送した「佐野元春のザ・ソングライターズ」のなかに、Mr.Childrenの桜井和寿さんへ「嫌いな言葉は」と尋ねるシーンがあった。
桜井さんの回答は「難しい問題だよね」。

「難しいな」「問題だな」と心で思ううちはいいのだが、誰かに向けて「難しい問題だよね」と表明すると、“議論は終わり” “考えるのはもう止めよう” という「記号」が創作されてしまう。
だから「難しい問題だよね」という言葉を嫌ったのではないだろうか。

桜井さんは作詞についてこんな話をしていた。
頭のなかで生まれた曲やメロディは叫びたいことの何らかのイメージを持っていて、発声したときに、口の開き具合や声のかすれ具合などからそのイメージをもらうのだそうだ。
つまり作詞過程では、動作や音響などの事象が重要になる。それは「書道とすごく似ている」とも言っていた。どのくらいのかすれ具合なのか。どのくらいの液を飛び散らして、どれだけ太い線を書くのか。
そうした事象は、身体をつたわって表れた衝動だ。衝動を身体で掻き鳴らすと同時に言葉をつむごうとしているのだと、わたしは感じた。

てっきりミュージシャンは、音や言葉を頭のなかで完成させ、理想を奏でる楽器として身体を使うのだと思っていた。「声は楽器」という常套句を口にするたびに思い込んでしまっていたのだろう。

彼の「創作」と紐づいている頭のなかの思想や発想がすごいというよりも、衝動と身体が詩作の中心をつかさどっているという凄味をいつまでも覚えておきたい。

「そう思うわたしはどうするか」という呪文を考えた

嫌いな言葉は「難しい問題だよね」。この答えを聞いてからずっと考え続けてきたことがある。
じゃあ代わりになんと言えばいいのだろう。勧善懲悪でも肯定でも否定でもなく右でも左でもない場合は、なんと言えばいいのだろうと。

そう思う。わたしもそう思う。
とだけ言うのは単純すぎる。
そうは思わない。わたしはそう思わない。
とだけ書くのは簡単すぎる。

とくに、つぶやくとき、コメントするとき。
頭のなかの思いつきだけで言ったり書いたりすると、「難しい問題だよね」のように意図しない記号を創作してしまうことがある。その記号に隠した悪意で人を傷つけることもある。

だからこんな呪文を考えてみた。
「そう思う」だけでなく、
「そう思うわたしはどうするか」まで思いをめぐらせよう。
「そう思わない」と表明するのではなく、
「そう思わないわたしはどうするか」まで表明しよう。
そうすれば多少なりとも、身体をとおして言葉をつむぐことができるのではないか。

難しい話ではなく、たとえばムカムカした感情がばばばーっと襲ってきたときに「そう思うわたしはどうするか」という呪文を唱える。
たぶん「ムカついているわたしはあなたをネットで叩きます」と表明するのは現実的に難しいだろうから、「ムカついているわたしはひとまずお風呂に入ります」となったりする。そのほうがいい。

「そう思うわたしはどうするか」と唱えよう。
そうしてできるだけ身体を伴わせた言葉をつむごう。心と身体を分離させずに、シンクロさせていこう。
すべてはそこからなんじゃないかと信じている。

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