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現実の見え方が変わる一冊-ガーゲン「あなたへの社会構成主義」

本書との出会い

「社会構成主義」あるいは「社会的構築主義」という言葉を聞いたことのある人は多いだろう。そしてその中には、この言葉になんとなく拒否感を覚えたまま大人になった人も少なくないはずだ。かくいう私も、そういう人びとのうちの一人だった。

私はかつて、「心理学」という響きがなんとなくカッコイイからという、どうしようもない理由で選択した、とある大学の心理学専攻に身を置いていた。当時所属していたゼミは、なにをかくそう社会構成主義を基盤とした学習理論のゼミだったのだが、そんなゼミにいながらも私は他ならぬ「社会構成主義嫌い」だった。なぜなら、どんな授業でもひとたび教員が「社会構成主義」といいだすと、その授業は途端に、具体性に欠ける、抽象的な話ばかりになってしまうという印象があったからだ。そしてこの印象は、おそらく私だけのものではないと思う。

なぜ社会構成主義が具体性に欠けるように感じられるかは後で説明するとして、もう少し昔語りを続けよう。この本が私に社会構成主義を教えてくれたのは、私がまだ大学院生だったころだ。当時の私は、社会構成主義に依拠した研究をしながらも、その社会構成主義の意義を理解しておらず、それによって「そもそも自分は何のために勉強しているのだろう」という空虚感を抱いていた。指導教官はそんな私に「哲学のない人間理解は、すぐに化けの皮が剥がれる」といい、自分の研究が依拠する哲学的基盤を勉強する必要性を、厳しくも的確に指摘してくれていた。しかし私は、哲学から目をそらし続け、ある意味「具体性に逃げて」いた。就職先が見つからないことも相まって、私は冬の空気のせいだけではない孤独感と不安を抱いて、それを紛らわすために毎日大学へと通った。

この本を読み始めてすぐ、私は「なんでもっと早く読んでおかなかったのだろう」と、これまでの自分を激しく後悔した。家でも移動中の電車やバスの中でも夢中で読み進めた。大学へ向かういつものバスの中で最後のページを読み終えた後、車窓から北関東の冬の景色を眺めながら、自分の研究を振り返った。あの時の気持ちは、悲しくも晴れやかだった。社会構成主義から逃げ続けたことへの後悔と、ようやく自分のやらなければならないことが明らかになりつつあるような希望が、私の周りをぐるぐると駆け巡っていた。

社会構成主義とはなにか

なぜ社会構成主義は抽象的な話に終始していると思われるのかに話を戻そう。それは他でもなく、この理論が、「具体的で明らかな現実が私たち全員の目の前にある」という、当たり前の世界観を厳しく批判する理論だからだ。

詳しく説明しよう。社会構成主義の中核を為す考え方のひとつが、私たちは誰にとっても明らかな現実のなかで生きているのではなく、常に言葉を用いて「私たちが互いに了承可能な(あるいは了承したい)現実をつくりあげている」ということだ。例えば首相の同じ会見の内容を伝える新聞記事を見比べてみると、同じ内容を伝えているはずでも、そこから受け取る印象は大きく違うということが多々あるはずだ。それは、各紙が会見のなかからピックアップしている情報が異なるということも理由だが、それ以上に「事実」を書く際の微妙なレトリックが大きく影響している。「首相は○○と簡潔に述べた」という記事と、「首相は明確な回答を避けた」という記事からは、「質問に明瞭に答える有能な政治家」と「議論を避ける卑怯な策士」という、まったく異なる政治家像が浮かび上がってくる。

このことは私たちの生活においても例外ではない。散歩中に少し疲れた様子の恋人にかける「あそこに椅子があるよ」という言葉は、平面の板状のものに三本以上の足がついた安定感のある物質がそこにあるという、誰の目にも明らかな物質的な存在のことを話しているのではない。「あそこに腰かけて、少し休もうか」という提案をしているのであり、「あの椅子は君が腰かけて休息してもいい場所だ」という、互いにとって了承可能な現実をつくっているのだ。もし同じ場面で、他人の荷物がわんさかと置かれた椅子を指して「あそこに椅子があるよ」といっても、その言葉は物質的存在を指すものとしては間違っていないが、二人の間には何の意味も生まない。このように、世界が誰の目にも共通に明らかなものなのではなく、私たちの言語的相互作用によって常に作り上げられ、維持され、作り変えられているものなのだと理解するのが、社会構成主義の世界観だ。

「現実」に苦しむ人へ

社会構成主義は様々な議論を生み、多くの研究を生み出した。一般に「科学的な研究」というと、数字を使って「客観的」なエビデンスを扱うというイメージがあるだろう。しかしそうした研究を行うためにはある程度の量のデータを集めなければならないため、自然とマジョリティを対象とした研究が行われやすくなる。場合によっては、マジョリティ中心の人間観を生み出し、研究がますますマイノリティを圧迫してしまうといった危険性もある。そうしたマイノリティに対して焦点をあてるために、数字を扱わずに言葉による「厚い記述」を目指すという「質的研究」が増加しているが、この潮流には間違いなく社会構成主義が大きな役割を果たしてきた。

人間は様々な問題に悩まされる。しかしその問題は、つねに当事者のなかにあるのではなく、実は社会的な事情、制度、状況によってつくられた問題だった、ということが少なくない。そうしたときに、どのようにして社会がそうした問題状況をつくりあげてしまうのかを明らかにするための視点を、社会構成主義は提供してきた。現実に苦しむ人にこそ、その現実の見方を変えるために、本書を手に取ってほしい。

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