バブルの頃#77:海外出張

1990年5月 
子会社が担当するブランドは5個ある。それぞれが、独、仏、英、伊、米で販売会議を年2回開催する。こちらは、兼務で各ブランドの日本のディストリビュータの営業責任者が、各国で日本におけるそのブランドに関連する市場動向を、日本経済、政治、スポーツなどの話題をまぜてプレゼンする。日本法人設立準備室はリエゾンオフィスとして、ライセンサーとライセンシーの良好な関係維持に努める。それが、さし当たって、日本子会社の利益の原資となっていく。

各ブランドの日本のディストリビュータとのヒアリングで年間のスケジュールを立てる。こまめに会議に出席すれば、月1回は欧米にいき、前後で台湾、香港、上海の工場に品質チェックにでかけることになりそうだ。
通信手段は、ファクスと電話。パソコンはラップトップとノートブックを使った。ノートブックと書類をいれた重いアタッシュケースをキャビンアテンダントと同じようにカートに乗せて広いターミナルの通路を持ち歩いた。

5月1日は、次の会議まで2日空いたので、ひとりパリにいた。オペラ座の前で陽気なデモ行進を見物し、チェイルリー公園では、歩道で描いていた絵を買った。全国的にメーデーなので、そんなことしかすることがなかった。会議中は、いろんな仲間と忙しく時間がたっていく。会議が終わると、祭りの後と同じで、孤独であることを思い出す。

日本のディストリビュータの人たちとは、プライベートを共有しない。彼らは新しくできた日本の子会社が目障りで、従業員がブランチオフィスと必要以上に接近することを禁止している。

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