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日記:書く、言語化する、ということについて


編集やライターの仕事に携わりたい、と漠然と思うようになった。

いや、思うようになったというか、以前から思っていたのだが、どうもその思いを実現化することが難しいように感じられ、「やるぞ!」というような気持になれないまま、時間だけが経過してしまったという感じである。

要因は色々考えられるが、結局のところ、不安が大きすぎるのだ。食べていけるのか、読者は増えるのか、おもしろい文章は書けるのか、どこまで自分をさらけ出せるのか…そんな不安ばかりが私を襲い、気疲れしてしまう。


現実的に対処法を考えるとして、「情報収集が足りていない」ということが考えられるし、必死でSNSで様々なライターや編集に携わる方たちの活動を見てみたり、記事を読んでみたり、『書く仕事入門』みたいな本を読んでみたりしているが、自分とはかけ離れた人たちのような気がして、誰もが輝いて見えてしまい、自分なんて、という卑屈な自分がどこからかやってくる。

それから、書くことを仕事にしようと思ったとたん、人に読まれることを意識しすぎて、何も書けなくなったし、人に読まれるような記事を書くにはどうしたらいいんだろうか、ということばかりを考えてしまい、また疲れてしまった。この文章は半分投げやりな気分で書いているが、(いったい誰のためになるのか、何の役にもたたないのではないか)などという気持ちになってしまう。(それでも、頭の中がぐちゃぐちゃでも書いているところに自分の執着心を感じたりもする。)


書く、自分の思いを言語化するということは、私にとって一種の救いだ。私は、結局のところ自分のために書いているのだと思う。

幼少期から本を読むことはわりと好きだったけれど、趣味みたいなものに過ぎなかった。(余談だが、今思い返してみると、小学校低学年ではバーネットの『小公女』、

高学年からは梨木香歩、中学時代はさくらももこのエッセイにハマった記憶が蘇ってきた。)

本格的に言葉や言語化するということに向き合い、その必要に迫られたのは、大学に入ってからだと思う。

高校生のときに原因不明の疾患にかかり、ずいぶんと心が落ち込み、自分の身体が変化していくしんどさや喪失感を味わった。そのときはその体験を言語化できなくて、苦しみがなぜそこにあるのか、なぜ苦しいのかもよくわからず、非常に混乱していた。

けれども、なんとか大学に進学することができて、そこで様々な本や学問や言葉や、似た経験をした人と出会い、彼らの語りを聞いたことで、私はずいぶんと楽になったし、なぜ苦しいのか、前よりもわかるようになったこともよかった。新たな言葉を獲得し、概念を知ったという経験をしたのが、大学時代だった。


だから私は自分の体験をこれからも言語化していきたいし、きっとそれをしていかなかったら生きてはいけないと思う。そして、もし何かを発信することで人の役に立てたらそれは素晴らしいし、それで生活していけたのなら、それは幸せなことだと思う。


と、ここまで書いてみて、またはじめの問いに戻ってしまうのだが、それはそれとして、ではどのように生活していくのか、という不安は依然として大きいままだ。
実際問題として、技術を磨くとか、ライターとして就職するとしたら、内定を取らなくてはならない。それは、簡単なことではないと思うし、その簡単なことではないことに向き合うことができるのか?と思って躊躇している今の私は、甘えてもいるかもしれない。(そして修士論文を進めていくというミッションもある。)

とにかく来週から、ライター講座に行くことにした。無料の講座を見つけ、試しに行ってみようと思った。ライター講座というものがあるということも、ここ最近まで知らなかったし、自分にはとうてい払えない受講料の講座があるということも知らなかった。知らないことが多すぎる。

最近、あまり人と話していない。人と話したい。ライターや編集をしている人に話を聞きたい。アクションをためらってしまうことばかりだが、とにかく少しずつ。

この文章を書いていて、本が読みたくなった。今夜はゆっくり本を読んでみようか。


みなさんも素敵な夜を。

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