隣人訴訟ともう一つの結末~三重・幼児水死事故~

昭和52年5月8日

「じゃあ、よろしく頼むわね」

三重県鈴鹿市のとある新興住宅地で、そこに暮らす家族がそういって隣人に声をかけた。
「子どもたちが二人で遊んでいるから、大丈夫でしょう」
その隣人も、それに応じた。

なにげない、いつもの風景。
新興住宅地内の生活道路で、子供たちは自転車を乗り回して遊んでいた。夫婦で家中の掃除に精を出しながら、時折子供らの声がする方を確認しながら、時間は過ぎていった。

20分ほどしたころ、隣人の子どもが一人で戻り、こう告げた。
「お母さん、あの子が池から戻ってこないよ」

預かった子供の死

隣人夫婦は急いで家の裏手にあるため池へと走った。
そこは、「祓川(はらいかわ)池」と呼ばれる結構大きなため池で、浅瀬が5~6m続くものの、中央部の深さは砂利を砕石した後であるため3~4mもあった。
子供らは当初手前の岸で遊んでいたようだったが、そのうち、預かった子供が泳ぐと言い出し、そのまま戻ってこないという。

近所の人らも集まって子供を捜すと、水際から6mほど沖の水中に沈んでいる子供を発見。
救急搬送されたものの、すでに死亡していた。

亡くなったのは、その新興住宅地に暮らす山中康之くん(当時3歳)。預かったのは康之くん宅から数件隣りに暮らす工藤さん(仮名)一家だった。
事件の詳しい経緯はこうだ。
その日、工藤家では大掃除の真っ最中であった。工藤家は子供が多く、その日も家の周囲で遊んでいたが、そこに康之くんも加わった。
午後2時半ころ、工藤さんの三男(当時4歳)と康之くんが家に帰ってきて、アイスをもらって食べた。
その後も、工藤さん宅の庭先で二人は遊んでいたのだが、そこへ康之くんの母親が現れた。
買い物に出かけるため、康之くんを迎えに来たのだった。しかし、遊んでいた康之くんは帰りたくないと渋った。また、一緒に遊んでいた工藤さんの息子も、康之くんが帰るならば自分もその買い物について行きたいと話したという。
それを見ていた工藤さんは、「まだ遊びたいみたいだし、置いていったら?」と言い、康之くんの母も、その言葉に甘えることにし、工藤さんの妻にも「使いにゆくからよろしく頼むわね」と声をかけ、また工藤さんの妻も冒頭の通り快諾した。

その直後に悲劇は起きてしまったのだった。

ため池の南側に位置していた新興住宅地と池の間には、一応の柵はあった。ただ、池まで7mほど距離があることから、完全に侵入できないという状態ではなかった。
それまでにも、康之くんは父親らと池で遊ぶこともあったといい、池には慣れていたわけではあるが、この日は溺れてしまった。

悲劇ではあるが、実際には不幸な事故であり、両家の悲しみは時間が解決するものと思われたが、その後の展開は日本全国を巻き込む大騒動へと発展してしまう。

訴訟

昭和52年12月2日、康之くんの両親は、工藤さん夫婦と鈴鹿市を相手取って損害賠償請求訴訟を起こした。
請求額は康之くんの逸失利益として955万円、康之くんへの慰謝料として500万円、葬儀費用30万円、康之くんの両親に対する慰謝料として500万円、弁護士費用200万円の総額2885万円だった。
さらに、ため池の管理責任の所在がはっきりしなかったため、2年後の昭和54年9月4日、国と三重県、そしてため池の工事に携わっていた建設会社を二次的な被告として訴えた。

本来は非常に仲が良かった家族が、訴訟にまで発展してしまった。
もちろん、子供を亡くした山中家にとっては、悲しみや怒りのぶつけ先がないわけで、非常に辛い思いをしていたのは想像に難くない。
しかし、工藤さんとて同じ思いであり、近隣の人々もみな心を痛めていた。
現在でも、ため池や公共の場所での悲しい事故で、その「管理責任」を問うための訴訟は少なくないが、康之くんの両親は、預けた工藤さん夫妻をも訴えた。

もともと家族ぐるみで仲が良かったという両家が、裁判という極端な形になってしまったのはどういうことなのだろうか。

事故後、康之くんの通夜、告別式には工藤さん夫妻も当然赴いた。
ただその際に、工藤さん夫妻からお悔やみの言葉はあったものの、明確な「謝罪」がなかったという。
さらに、康之君を失ったショックで寝込んでいた母親が、四十九日が過ぎたころに意を決して工藤家を訪れた。それは、少しでも康之くんが事故に遭うまでの様子や救助時の様子などを知りたい一心でのことだったが、工藤家の人に会うことが出来なかったという。
不信感が募り始めたころ、さらに康之くんの母親を打ちのめす「うわさ」が耳に入った。

工藤さん夫婦は、山中さん夫婦よりも10歳ほど年上であった。だからなのか、工藤さんの妻が、
「山中さんはまだ若いんだから、もう一人産めるわよ。また子供を作ればいいのに。」
と話していた、というのだ。

これに「怒り心頭に発した」康之くんの両親は、弁護士を雇って提訴に踏み切ったのだ。

対する工藤さん夫婦も、提訴を受けて立った。
こちらも弁護士を用意し、全面対決の意思を示したのだ。
康之くんの両親の主張は、
「子どもを預けるにあたって、お互いの意思を確認しているのだから準委任契約が成立している。であるから、工藤さん夫婦は委任の本旨にしたがって善良なる管理者の注意をもって康之くんを保護監督する義務が発生している。100歩譲ってその契約関係が認められないとしても、信義則上の注意義務はあった。それを怠ったのだから、不法行為責任は免れない」
というものだった。

これに対して工藤さん夫婦の反論は、
「山中さん夫婦の言うような当時の応対があったとしても、それは近隣のよしみによる儀礼的な挨拶の範囲内であって、無償で子供を監護するといった際には準委任よりも軽い注意義務を負う寄託が適用されるべきである。
現に、工藤家の子どもと同じ状況下での監護であるし、そもそも自転車で遊んでいた子が入水に至るなどと言うのは予見可能とは言えず、不法行為責任が生じる余地はない。」
ということだった。

簡単に言うと、山中さん夫婦からすれば預かるといった以上は通常よりも注意を払わなければならなかったのにそれをしていないから訴えます、ということで、一方の工藤さん夫婦からすれば、そんな重い注意義務が発生するのに無償かよ、無償の行為は近所同士の付き合いがあってのことなのだから、そこまで言うか、というものである。

県や建設会社などには管理責任を問うた。被告となった国、県、市は管理責任自体を否定し、建設会社は池の砂利を採取したのちに池の底をならす工事をしなければ水難事故が起こる可能性を予見できたはずだとして訴えられたものの、工事の性質や池の立地面などからそこまでの工事をする必要性はないとして反論した。

判決と予想外の展開

裁判所は、工藤さん夫婦に対する請求の一部のみを認めた。
賠償額は大幅に減額となったものの、山中さん夫婦に対し526万円を支払うよう命じた。
判決は、工藤さん夫婦が主張したように、工藤さん夫婦が預かると応対したことは「ご近所同士という関係性の中で生まれた好意」であり、準委任契約の成立は認めないとした。
一方で、工藤さん夫婦には不法行為に該当する責任があるともされた。
それは、
①康之くんが「もしかして」池に落ちるのでは、ということを想像するのは可能なことだった
②もしも子どもたちだけで池で遊んでいたら、池の状態を知っていた工藤さん夫婦は重大な事故に発展する可能性も予見できた
③以前から康之くんが父親らと池の中央付近で泳ぐなどしていたことを工藤さん夫婦も知っていたこと
④加えて、康之くんが3歳児にしては活発で行動的な子どもである事も知っていた

以上のことは、工藤さん夫婦でなくても子供を監護する立場の人ならば誰であっても注意すべき点といえ、また、誰であっても注意しうる点であるから、それを怠った責任はある、とした。

ただし、工藤さん夫婦にも事情があったことも裁判所は認めた。
その日工藤家は大掃除をしていたのは先に述べたとおりだが、それを康之君の母親は知っていた。にもかかわらず、無償で子供を置いていくというのは、たとえそこに工藤さん夫婦の好意があったとしても、有償の場合に比べて注意義務はそこまで重いものではない、ということ。
そしてもうひとつは、ため池に近い場所で幼い子供を育てているのであるから、親が日ごろから水の怖さなどをしっかりと躾けておくべきで、要するにしつけが足りてないかったという点である。

この2点を過失相殺し、損害の分担割合を原告側(山中さん夫婦)が7、被告の工藤さん夫婦を3とした。

この結果をしっかり見れば、少なくとも訴えた山中さん側に有利な判決内容とは到底言えず、過失の割合から見ても圧倒的に親えある山中さんの方に責任があるとしている。
しかし、3割は工藤さんにも落ち度があったということで、500万円強の支払いが命じられたことが、思わぬ世論を引き起こしてしまった。

バッシング

判決が出たのち、新聞各社は大きく報道した。
しかし、ほとんどの見出しは、賠償命令を受けた工藤さん夫婦に同情的なものだった。

例えば、地元の中日新聞では「『近所の善意』に厳しい判決」とし、全国紙も「隣人の好意につらい裁き」「近所付き合いに『冷や水』」といったものに加え、工藤さん夫婦に賠償命令が下ったことを重点的に報道した。
それ以外にも、「善意とはなにか」や、「子どもはもう預かれない」といった、どこかこう記者の感情が大きく影響しているような記事が躍った。

先にも述べたが、判決は賠償命令を出したものの、その多くは親に責任があるとしている。しかし、このような見出しを見ると、多くの人は原告である山中さんの主張が全面的に認められたというような極端な印象を植え付けられてしまう恐れがあった。
そして、それは現実のものとなり、原告の山中さんに対して全国から非難の声が寄せられたのだ。

判決が出た当日の夕方、山中さん宅には電話が相次いだ。
当時は電話帳に住所や名前が当たり前に掲載されていたし、事故を報道する際も細かな住所まで載るのは当たり前だった。
そのため、山中さん宅の住所や電話番号はいとも簡単に見つけることが出来てしまい、報道があった翌日からはさらに強い抗議、非難、そして誹謗中傷へとその内容はヒートアップしていく。

山中さんは、電気工事業を営んでいたのだが、報道された翌日には元請業者から突然に契約を打ち切られた。
また、当時小学5年生だった山中さんの長女は、学校で賠償金を何に使うんだ、などと冷やかされ、商売をしていた親せき宅へも裁判を非難する声が寄せられた。
自宅への嫌がらせの電話や手紙は収まる気配もなかった。
わずか20日程度の間に、嫌がらせ電話は500件以上、手紙やはがきなどは50通以上山中さん宅にもたらされた。

一方で工藤さん宅には、支持するといった応援の電話が相次ぎ、中には弁護士費用を用立ててやるから控訴しろ、などと言ったものもあったという。
工藤さん夫婦への賠償命令は出たものの、国や建設会社への管理責任が認められなかったことで山中さん側は控訴の予定だったが、思いもよらぬ全国からの罵倒の嵐に、判決から約2週間後、訴訟自体を取り下げてしまう。

ただ、訴えを取り下げるには相手方の同意が必要であった。実は山中さんが訴えを取り下げる1週間ほど前に、工藤さん夫婦は控訴の手続きをとっていたのだ。

山中さんが訴えを取り下げたことが報道されると、風向きはがらりと変わった。
あれほどまでに日本全国から同情と激励を受けていた工藤さん夫婦に対し、今度は「人殺し」などといった誹謗中傷の声が寄せられるようになってしまったのだ。
工藤さん夫婦は即座に訴えの取り下げに同意し、国や建設会社も同意したため、津地裁での裁判は判例のみが残され、訴訟自体は最初からなかったことになってしまった。

山中さんは自宅に住み続けられなくなり、引っ越しを余儀なくされた。
法務省の人権擁護局もこの事態を重く見て、調査を始める。双方の夫婦からの聞き取り、実際に送られてきた抗議文などの中身を精査し、
「多数の侮辱的ないし強迫的な内容の投書や電話が殺到し、そのことで裁判を受ける権利が侵害されてしまった。これは非常に極めて遺憾なことであり、このような事態が再び起きないように国民ひとりひとりが裁判を受ける権利の重要性を再認識してほしい」と強く訴える事態になった。


暴走した正義感

訴訟取り下げと、法務省からの異例の表明という事態を受け、新聞各社は冷や水を浴びせられたかのように冷静さを取り戻した。
判決直後に感情的ともいえる記事を書いた記者の一部は、それを反省し、この「騒動」を分析するなどしている。
今ならば、新聞やテレビの情報のみを鵜呑みにして国民が右へならえで物事を批判するという現象はあまりない。
それはネットが普及し、真実を自分たちである程度知り得ること、そして、報道が絶対的な真実を伝えているとは限らないと知っているからだ。

しかし昭和の時代、新聞をはじめとする報道がすべてだった。新聞に書かれることこそが正義であり、真実だった。
たとえそこに書く側の感情や思惑があったとしても、それを見透かす力は国民になかったと言っていい。
山中さん側の事情は殆ど報道せず、ただ善意の隣人へのあまりに辛辣な対応、その一点のみを前面に出した。
さらに裁判の中身を詳しく説明もせず、500万円という一般的に考えると高額な賠償命令のみを見出しに載せた。

人々の生活は豊かになっていたとはいえ、それでも500万円という金額は人々の心に歪みをもたらすには十分な金額である。
投書をした人々は、ほとんどが高齢者と言われている。中国残留孤児やシベリア抑留を引き合いに出すなどしている文面からもそれは窺えるのだが、加えて、日本人の美徳や助け合い精神などを引き合いに出し、あたかも自分は正義を主張しているといった文章も多かった。
戦前、戦中、そしてすべてを失った戦後を生き抜いて、生活は楽になったけれども気づけば高齢となった人々が、自分たちが大切にしてきた「隣人愛」「助け合いの精神」をまるで無視するかのようなこの裁判に、そして若い世代の山中さんに怒り狂っていた。
もう一つ言うならば、山中さんが自営業者であり、外車を乗っていたことや、サラリーマンだった工藤さん宅よりも裕福だったこともその怒りを増幅させたと思われる。

子だくさんでサラリーマンの工藤さんが弱者、自営業者で裕福な山中さんは強者という図式が、潜在的にあったことは否めないだろう。
彼らは隣人愛などともっともらしい言葉を大義名分にして、自身が発揮することのできなかった偏った正義感をこれでもかと山中さん夫婦にぶつけたのだ。

隣人でなくなったから訴えた

また、子供の死の責任を金で解決するのかといった的外れな批判もあった。
裁判の仕組みを少しでも知れば、損害賠償は金銭賠償が原則とわかるわけで、訴える以上、賠償額が出るのは当たり前のことだ。
しかし、子供を善意で預かってくれた隣人を訴え、さらに500万円という金を受け取ることになった山中さん夫婦には、それを理解しようとしない人々から「守銭奴」「そんなに金が欲しいのか」「工藤さんからとった金で海外旅行でも行きますか?」などといった誹謗中傷が相次いだ。
これについては、熊本大学法学部教授の吉田勇氏も、金銭賠償以外の方法が検討されて良いのではないか、と提言する。
今回、山中さん夫婦は「金が欲しくて」訴訟をしたのではないことは明らかであり、そうであるならば弁護士費用の負担であるとか、慰霊碑建立の費用など、実費として発生した部分は金銭賠償、それ以外の部分、たとえば精神的なダメージは慰謝料ではなく、精神の回復に必要な形をとる、といったことが考えられないだろうか、としている。

そもそも山中さんは訴えの動機として、「一言の謝罪もなかった」ことを挙げている。
であるならば、工藤さん夫婦が謝罪すれば山中さんの気持ちは収まるはずである。
ただ、これを判決で命令してしまうと、誠意から出た謝罪と受け取れなくなってしまうわけで、解決とは言えなくなる。
実は、この部分が欠落していたことが、裁判ひいてはその後の騒動を大きくさせた原因なのである。

山中さん夫婦と工藤さん夫婦は、昭和49年ごろにこの新興住宅地に家を構えており、年齢差こそあったものの同じ年頃の子どもがいることで交際を深めていた。
お互いの家を行き来し、それこそどちらの家の子どもも我が子同様に面倒を見、家同士で深く結びついていたはずだった。
だからこそ、山中さんに対し、「隣人愛」「助け合い」を持ち出して人々は批判したのだ。そこまでに仲が良い相手を、お互いの話し合いで解決せず「突然」訴えるのか、と。

個人が個人を訴える民事訴訟は、裁判を起こすまでは同情的な人々も、いざ提訴に踏み切ると途端におろおろし始めたり、時には「そこまでしなくても」などと言い出して訴えを起こした人を批判したりすることもある。
悪意があってしたことではなく、むしろ善意で行ったことが「不完全」だったことで訴えるというのも、その前に第三者を交えた話し合いや謝罪の場があれば違うのではないか、しかも仲が良い隣人同士であるのだから。
もっともである。しかし、先に紹介した吉田勇氏はこう分析する。

「この事例でも誠意ある謝罪を(山中さんが)求めているところから見て、少なくとも訴訟提起の時点では、被告夫婦は原告夫婦にとって"善意の隣人"ではなく、謝らないから許せない"他人"になっていたのである。隣人ではなくなったから訴えが提起されたのである。」


実際、山中さんが事故当日の様子を聞くために工藤さん方を訪れた際、会うことが出来なかったというのは先にも述べた。
実はこの時、「玄関にカギがかけてあった」という表現をしていた。
推測ではあるが、時代的にも普段玄関に鍵などかけない家だったのではないか。もっというと、近所だからこそ、在宅であることを把握したうえで訪ねたのではないか。
にもかかわらず、玄関は施錠され、応答もなかった、しかもそれは3度も続いたという。

ここに、工藤さん夫婦の潜在的なものが見え隠れしないだろうか。

さらに事態を悪化させたのは、被告側弁護士の頑なな態度にもあった。
裁判所は一度、和解を被告側弁護士に打診したという。それを、被告側弁護士は即座に断ったというのだ。
感情のもつれが大きく影響しているケースであるにもかかわらず、勝敗をきっちりつけようとする弁護士の姿勢が事態を悪化させてしまったともいえる。

山中さん夫婦は訴訟を取り下げた後、それでも康之くんの慰霊だけはと、池のほとりに慰霊碑をたてた。

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