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えびすじゃっぷは何故オワコン化したのか。猫と女に勝つ思想。

私はYoutuberなので、たまにはYoutube関連の考察をしてみたいと思う。Youtuberたちはデビューした世代別にコンテンツの方向性が大きく異なる。商品紹介ややってみた系の動画で世間に浸透し始めたYoutuberは、第四世代と呼ばれる過激系のカウンターカルチャーによって芸能人化が加速した。尚世代分けについては下記記事と概ね意見が一致しているので参考にさせていただくことにする。ヒカル、ラファエル、禁断ボーイズといった過激系路線はYoutubeがメジャーコンテンツ化するにしたがって勢いをなくし、ゆるやかにエンタメ路線のYoutuber第五世代に道を譲ることになった。下記記事では「家族で見られるような、安定的なYouTuber」が台頭した背景には度重なるYoutuberの事件や炎上の食傷化が主な原因であると考察している。料理系動画が伸び始めた時期も2017年-2018年ごろであり、同時期にユーキャンの新語大賞でYoutuberがノミネートされている。世間的認知と炎上の縮小が同時期であることを考えると彼の考察には一定の説得力がある。

その後、プラットフォームの垣根を超えるようなショートコント系や豆知識系のYoutuberが第六世代として台頭し、現在ではYoutubeとTikTokでは瓜二つとは言わないまでも、同じような文化が形成されている。各プラットフォームはショートコンテンツを投稿するサービスとLiveを提供するサービスを同時に持っていることが常識になった。もともとInstagramの専売特許であったショート動画はTikTokからYoutubeへと、ユーザの垣根を越えて人気コンテンツになっていった。ショートという1分以下(超短尺)で初見でも理解できるコンテンツと、彼ら彼女らの活動の文脈を知らなければ楽しむことのできないファン動画が隆盛を極め、短尺で商品やサービスを紹介するコンテンツは絶滅してしまったと言っても過言ではないだろう。ここで1つ疑問なのが、ファン動画のマーケットで生き残ることの出来る動画発信者にはどのような特徴があるのかということだ。タイトルにも記載した通り、えびすじゃっぷはその失敗の最たる例である。彼らはイケメン3人組でナンパ企画やマッチングアプリ動画で視聴者を獲得したが、チャンネルが拡大するに従い大衆を取り込みにくいナンパ企画から足を洗った。元々イケメングループだったこともあり、その後の活躍が期待されたが彼らの最近の平均再生回数は10万回程度で、過去動画には遠く及ばない。過激な行動や主張を控えながら、才能のない若者が動画発信者として安定飛行し続けるにはどうすれば良いのかを考えていきたいと思う。

トレンドより思想

Youtuberに限った話ではないが、日本では長らくエンタメと思想(特に政治や経済に関する持論)は禁忌とされてきた。お笑い芸人や歌手なども最大公約数を取れるようなトレンド的創作活動を行い、ニッチでファンを獲得するやり方はあくまでもサブカルチャーの戦略であり続けていた。その流れを汲み、Youtubeでも分かりやすさを重視するエンタメが供給されてきた。視聴者は何が観たいのかを明確に言語化することが出来ないため、供給によってトレンドを確認し、少ない選択肢からメインカルチャーを決定していたにすぎない。創作者が増えるほどにコンテンツは多様化し、選択肢は増える。人間は全てのコンテンツをみて良し悪しを判断することができない。発信側と受容側には情報の非対称性が存在するため、人は己が限定合理性に基づいてコンテンツを取捨選択している。もしくはAIによって選択肢を与えられている。プラットフォームが島宇宙化すれば、言論や思想は力を取り戻す。トレンドという大きな物語はインターネットが開発されて50年たった現在、ようやく崩壊を迎えている。島宇宙の中では誰もが教祖足り得るし、村長足り得る。大衆を牽引する力は既に思想や言論にはないかもしれないが、ネットワークを作る力が再評価されるポスト現代には、それに伴って思想や言論がトレンドに勝ることがあるのではないだろうか。

えびすじゃっぷの話に戻れば、彼らには思想が欠けていた。彼らは元々がモテる方法や振る舞いなどをエンタメに昇華していた存在であった。その情報商材的ワクワク感を視聴者に与えられなくなった時点で、インターネットに数多存在する美形男子グループのVLOGに成り下がってしまったのである。余談だが格好良さは可愛さには勝てないという社会学的な理論がある。可愛い女性は、女性男性共にファンを集めやすいが、男性は格好良さだけで男性ファンを獲得することが難しい。これは男性にはホモフォビアという同性嫌悪が強いためだとされている。イケメンであるということは創作活動をすることにおいてちり紙ほどの価値もないのかもしれない。

文化を形成できる大資本

デブでサイコパス(不倫80又)の岡田斗司夫本人がホワイト革命されていないという矛盾
彼自身がホワイト革命の抜け穴

私が以前から主張している『大資本』について文章にするのはこれが初めてである。大資本について簡潔に述べるのならば、世界観やコミュニティを形成するための資本を指す造語である。以前に加速主義者ニックランドの暗黒啓蒙に関する記事で少し触れた、Vtuberタレント事務所のANYCOLORが行ったようなコミュニティ戦略を簡単に説明するために造語を作らせてもらった。ニックランドはポリコレによる脱個性化と才能の画一化を促す勢力を大聖堂と呼んだ。大聖堂は多様性を武器に自己主張に内在する多様性を破壊するという一見矛盾した存在である。アメリカの哲学者マイケル・サンデルはリベラリズム批判として、可視化しやすい格差や差別を抑制しながら、半透明な差別構造や格差を肯定するのがメリトクラシーの本質だと喝破した。多くのリベラリストは白人と黒人の間の差別には高い問題解決意識を持っているが、白人同士の教育格差を自己責任として切り捨てる。政治的に正しい姿だけを求めて、なぜ差別主義者や無教養な大衆が生まれるのかというメカニズムには蓋をしてしまう。無批判なリベラリズムがホワイト革命を浸透させ、一部のクリーンな勝ち組に文化資本を集中させる結果となる。そこに対抗するのが大資本の働きである。大資本は文化資本を持たない非力な創作者や芸術家を集めて、そこに文化的繫がりを作る。岡田斗司夫はインターネットにおいて汚いものや発信はミュートされ、大衆の認識から徐々に消えていくと述べた。この認識は概ね正しいが、この流れは個人間の繫がりには顕在しても、大資本を消し去ることは出来ない。

例えば、スラム街は発展した都市に比べれば治安が悪いのは自明である。満足な教育を受けることが出来ないまま社会の構成員となったスラムに住む人々の倫理観と、高等教育を受けている都市部の人たちの倫理観が異なるのは当たり前である。都市部の人間たちはスラムに近寄ることを避けるだろうが、スラムの住人同士の結束には影響がない。ホワイト革命とは所詮は文化の分断、もしくは異文化を持つ個人同士の分断に過ぎず、良い人戦略を取らない人が孤立するという岡田斗司夫の見立てには必ずしもなり得ない。文化を作れば可処分時間は外部に漏れることはない。なぜなら可処分時間の搾取には、異文化への憧れが前提となるからだ。憧れを誘発させ、可処分時間を吸い取るエンターテインメントは広い意味で言えば情報商材である。情報商材は優秀なコンテンツであるが、前述のえびすじゃっぷのように他者の憧れから得られる可処分時間には限界がある。人の憧れは多種多様であり、天井が存在する。youtubeで言えば50万人程度までは情報商材での上昇が可能かもしれないが、その先は難しい。個人が個人から可処分時間を奪うのは修羅の道であり、キズナアイや電脳少女シロの没落をいち早く察知し、Vtuberが大手から底辺までお互いの配信をウォッチし合う配信文化を醸成したANYCOLORの戦略が優秀であったことは間違いない。

思想という領域

集団戦略としての大資本が優秀であることには間違いがないが、大資本内での成功には思想が不可欠である。エンターテインメントには特質した才能や面白さの必要性、情報商材には知識の賞味期限という足枷がそれぞれ存在する。我々凡人の99.9%には才能がない。インターネットの住民たちは『成功するためには努力と才能のどちらが重要か』という議論が大好きであるが、私から言わせれば噴飯ものの空論である。特別な才能など持ち合わせるはずのない凡人たちが才能の優位性を解明したところで意味は薄い。私も含めて大多数の人には特別な才能などないのだから、工夫と構造によって成功を作るしか方法はない。容姿の優れないエンターテイナー志望者にバーチャルの被り物を被せてアイドルや芸人に仕立て上げたVtuberという文化は優れている。さらに個人に特質した面白さがなくてもにじさんじという界隈が、彼ら彼女らの活躍の場を担保してくれる。主体性のある発信者であればここまで他力本願になる必要はないが、並み程度の主体性しか持ち合わせなくとも大資本が押し上げてくれる。私が目指すのは言論人を作り出す大資本である。動画でも説明したが、成田悠輔という一介の大学助教授を日本言論界のスターに昇華したテレビ東京と日経テレ東大学のディレクターの高橋弘樹は日本有数の大資本である。彼らの力があれば、成田悠輔レベルの言論人は(それなりの金銭的&時間的投資は必要であるが)定期的に生産が可能である。

このような文化の生成に興味があるため、私は構造主義と社会学を重点的に学んでいる。社会や文化というものは複雑系であるため、大資本のノウハウ的な部分については考察と検討が必要であるが、才能の発掘と拡大には再現性があると思っている。幸いにもハロー効果でバイアスで文化資本を積ませることが可能である言論や思想の界隈では、ウサインボルトやベンジョンソンのような遺伝的に優れた逸材を探す必要は薄い。焚火程度の熱量があれば誰でも言論人という活動者になることは可能である。

まとめ

政治家は猫になる。これを言ったのは成田悠輔である。人間の情報処理能力はAIに大部分を代替される。人間が政治的決定を行う蓋然性が低下するに従い、外見だけを表象する存在としてアイコンがあれば充分になる。現代では経験という安心感や威厳に基づいた決定という要素が高齢男性というアイコンが紐づいている。しかしAI化の活躍が自明となれば、その前提も覆るであろう。経験を外面で表彰しなくて良いのであれば、政治家は可愛い猫である方が良いし、科学者は美しい女性の方が良い。男性性の価値は現在の延長線上で存在し続けることが難しい。最後の希望が思想であるが、大多数に思想を求めるのは些かマッチョすぎるかもしれない。声や体を変えられるのであれば、男性も女性になれる。フランスの思想家ジル・ドゥルーズは男性の女装(マゾヒズム)を一つの生成変化として提示しているが、メタバース時代にはある意味で予言的な思想であったかもしれない。しかしそれは生存戦略として有効ではあっても、闘争という楽しみの中に身を置く野生人としての人間の側面を無視しているのではないだろうか。競うことは楽しい。もちろん、うつ病にならぬ程度に。動かなすぎてはいけない。


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