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ハントマン・ヴァーサス・マンハント/第2章/第1節/「月の砂漠と呪いの血統」/前編

(まるでデコボコで石だらけな今までの第1章は以下のリンクから)

砂漠、砂塵、砂嵐。世界には砂の海だけがあった。照り付ける日差しも、喉を焼く渇きも、大切にしていた筈の荷物も、自分の記憶も、何もかも全てを何処かへ置き去りにしたまま俺の体は砂漠に飲み込まれつつあった。苦痛は無かった。そこには自分に対する恐怖だけがある。死の直前に自分が何者であったか思い出してしまうことへの恐怖。それは生きることへの執着が戻ってしまうことへの恐怖だった。神様がこのまま自分を安らかに死なせてくれることだけを祈りながら、俺は肉体が風化する日を待ち続けることにした。

「……兄さん、やっと見つけた。こんなところでお昼寝をしていたなんて」

聞き覚えのある女の声が鼓膜を叩く。兄というのは俺のことだろうか?思い出せば苦しくなるだけだというのに、気になると考えずにはいられない。見覚えのあるセーラー服の小娘が砂丘に立って俺を見下ろしている。直射日光の厳しさに加えて昼夜は寒暖差が厳しい砂漠にいながら、そんな装備で大丈夫か?……そう問われて首を傾げた小娘が瞬きする間に砂嵐に消え去った。

「もう、これならいい?」

入れ替わるように現れたるは冒険家の装いに身を包んだ小娘だった。連鎖的に記憶が甦る。こやつは俺の妹であった。お前は昔から俺の言う事をよく聞く素直で良い妹だった。あれは俺が小学生の頃だった。「おれ、将来はミステリーハンターになりたい!」と言い出した時も、ただ俺を優しく諭しただけだった。ミステリーハンターは女性にしかなれない仕事だよ、と。

「早く帰ろう?ほら、あの、何だっけ……そう!タタール人が来る前にさ」

……タタール人。聞き覚えがある。砂漠の記憶に紐づけられた名前。人間を見るや否や襲い掛かって来るような物騒な連中だとは知らなかったが。

「どうかな。人間を取って喰うような怪物みたいな人々かもしれないよ?」

人間を食べる怪物。それを聞いて、冷たい何かが胸の奥から生えて来るように思った。胸の切り抜きを、砂漠の風が吹き抜ける。その輪郭を捉えようと苦心して、しかし今はそれどころではあるまいと断念した。難儀して起き上がろうとする。またも瞬きする間に妹の姿が立ち消えて、不安に思う間もなく至近に現れる。

「怖いよね?……人間を食べる怪物ってさ」

騒音と怒号。地平線の向こうから砂煙を伴った何かが迫って来た。彼らがタタール人なのだろうか。思うように身体に力が入らない。救いを求めて妹に手を伸ばす。それも空しく指先が掠めるだけだった。俺に手を貸してくれる為に近くに寄って来たのではないらしい。妹は屈みながら微笑んでいる。

「それに比べたら人間の血を吸う怪物なんて、可愛いものだと思わない?」

何かを言い返そうとして、それも果たせず、沈黙に割り込むように聞き慣れたメロディが鳴り響く。……電話が鳴っているのだ。尻ポケットに入れた携帯電話からの呼び出し音だ。この旋律は妹からの着信を知らせる為に設定したものだった。俺の、目の前に居る妹からの、電話が、鳴っている。

「……電話だよ?出ないの?私が代わりに出てあげようか?うわ、緊張するなぁ。何て挨拶したらいいんだろう?『……モシモシ、私は震夜の妹です。兄がいつもお世話になっております。兄は今、取り込み中でして。今日はどのようなご用件でしょうか……?』って、こんな感じでいいのかな?」

既に周囲は何者かに囲まれている。シルエットは人間のものだ。だが何かが違う。前傾姿勢に、その唸り声。人間から❝人間性❞を剥ぎ取られた何かが円陣を組みながら包囲を狭めつつある。

「……兄さん?このままだと、時間切れでゲームオーバーだよ?」

時間切れ!それにゲームオーバー!まるで二つの言葉が鋼とフリント、火打金と火打石めいて脳内にスパークを引き起こした。もう少しで思い出せるはずだ。俺が何者か?今、どんな事態に巻き込まれているのか?否、俺は何から逃れようとして、向き合うことを恐れて、何かを……何かが!胸のポケットの中で震えている。携帯電話の振動とは違う。不規則で気まぐれで、相手をしないとすぐに拗ねてしまう幼児性、それから機嫌を損ねると手に負えない自己中心性。一か八か、胸ポケットに潜む何かを引きずり出そうとして、激痛が走る。❝そいつ❞が嚙みついてきたのかと思ったが、そうではない。小さな突起が等間隔に並んだ円柱状の乳白色のオブジェクト。そいつは俺のクイーンだった。最強の自由の象徴。白のクイーンが俺に何事か囁いた。

「えへへ、ダンナ。助けて欲しいですか?でも人にもの頼むときには礼儀ってものがありますよね?❝ヒト❞が❝我々❞にものを頼むときには尚更……」

……。

「ぎゃあああ!ちょっと!私を口に含まないで!歯を立てるのもやめ……わかりました!ダンナを助けますから!いえ、助けさせていただきます!!」

口からペッと喋るコマを吐き出した。妹に化けた怪物が消え失せ、周囲を取り囲む人間狩りが消え失せる。月も、砂漠も、俺の体も含めた何もかもが四角い泡になって消え去った。そして。

見慣れた建物。この国の夜の大気。それから数日前から狂ったように赤い月。ここは紛れもなく俺の生まれ育った街だった。俺は相棒に担がれて、妹に化けた怪物と対峙していた。周囲を見渡した限り、ここは何処かのヘリポートらしい。さっきまで宿泊していたホテルの屋上であろうか。全身の痛みが酷い。しかし、自分の足で立てないほどではない。ねえ、聞いてる?

「聞いてません。少し灰に埋もれて❝ゲーム❞のコマとしての立場と自覚を持って欲しいな~とか思ったそばから電話で妹君に……それも敵であるハントマンに助けを求めるようなダンナの言うことなんか聞こえません。……えぇ、それから五分も経たずに私たちの居場所を突き止めた妹君にも驚きですけど」

「ふふ。精密機器には色んなモノを隠しておけるのよ、伯爵?ニンゲンの技術も侮るから、こうやって足元を掬われるのだわ……」

(中編に続く)


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