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「広島の風」 #10

<醜態>
 季節外れの暖かい陽射しが降り注ぐ東京駅のホームに石本夫妻の姿があった。一張羅の背広とコートに身を包んだ石本は、大きな柳行李を風呂敷に包んだものを背負い、夫人の扶美代とともに汽車に乗り込み、東京の街をあとにする。
「あなた、次はどこでしたか」
「大阪じゃ。タイガースの監督をやっとったとき以来じゃのう」
 去りゆく東京の街を車窓から眺め、煙草を燻らせる石本に、まだ年端もゆかぬ愛娘が無邪気な顔を浮かべて問いかける。
「おとっちゃん。またタイガースに行くんね」
「タイガースじゃない。別のチームじゃ」
「タイガースにすればええのに。だってタイガースは人気チームじゃもん」
「そうじゃのう。呼んでくれたらいつでも行くんじゃがのう」
 煙草の煙で萎れた顔が、少し綻んだ。
「でも、大阪にタイガース以外のチームなんてあったかしらねえ」
「戦前からゴールドスターのオーナーをやっとった実業家の田村さんにのう、合併でできたばかりの太陽ロビンスというチームの監督をやってくれと頼まれて、わしはそれを引き受けたんじゃ。その田村さんという人はのう、経営しとる親会社の羽振りがええらしいんじゃ。選手も大物を連れてくるらしい。今度ばかりは、わしも楽ができそうじゃ」
「いろいろなところへ呼んで頂けて、本当に有難いことですねえ」
 不器用でずぼらな石本を、扶美代は妻として甲斐甲斐しく支えていた。夫が脱ぎ散らかした服をなにも言わずにたたみ、食べ散らかした食卓をなにも言わずに片づける。たとえ広島野球の雄と呼ばれた石本であっても、彼女の献身抜きには存在し得なかった。

 田村駒治郎が借りてくれた西宮の古びた一軒家に石本一家は根を下ろし、新しい生活をはじめた。
 ほどなくして石本の新居を訪れた田村は、いかに自らの事業が好調かということを饒舌に語り、娘に土産の玩具を渡す。
 秘書だという同伴の若い男が、鞄から契約書と札束を取り出し、卓袱台の上に置く。
「これ、契約金と初月分の給料ですわ。残りは毎月、お支払いしますよってに」
 息子二人と両親の遺影が見守る中、恰幅が良く、闊達な田村に身振り手振りを交えて熱弁された石本は、感化されたように「優勝できるチームに育ててみせましょう」と決意を語る。
「明日をも知れぬ人々は夢と希望を持てず、世の中が殺伐としとる。人々に夢と希望を与えることができるものは野球や。アメリカと同じく、必ず我が国にも野球の時代がやってくる。わしの夢はな、日本のプロ野球をもっと発展させて、いつか全米軍と戦い、これを完膚無きまでに叩きのめすことなんや」
 終戦後すぐ、まだ余燼燻る広島に生まれ、石本も身を置いた「オール廣島」は、チームとしての体を成さないまま雲散霧消し、「結城ブレーブス」として所属した国民リーグもたった一年で儚く散った。もっとも、国民リーグの崩壊については「日本野球全体の発展のため」とこれを煽った鈴木龍二に梯子を外されたことが遠因であるが、新興企業がプロ野球に参入し、リーグ戦を運営することの難しさを肌身で感じた鈴木は、これ以降、プロ野球の門戸開放には反対の立場を取るようになる。
 鈴木が国民リーグ立ち上げに参画したのには理由があった。その方針の相違により溝が深まっていた正力の元を、つまり日本野球連盟を飛び出し、まったく別の新リーグを立ち上げて、自身はそこのコミッショナーに収まろうという魂胆が肚にあったのだ。議員への返り咲き叶わず、鈴木を押しのけるように日本野球連盟に入り浸るようになっていた松原の存在を疎ましく思っての行動とも言われている。とにかく、松原はそれを「選手の尊厳を軽んじる愚弄なる行為であり、野球への冒涜である」と痛烈に批判し、この件でついに二者の対立が鮮明になった。
 鈴木という男は徹底した現実主義者(リアリスト)で、それが商売になると踏めば全力で支援するが、そうでないと踏めばなんの躊躇いもなくそこから手を引く、良くも悪くも事務官僚的な気質を持つ。かつてはプロ野球チームの代表を務めたこともあるが、元来野球への興味は薄く、あくまで「商売として成立するか否か」で動く男であり、情熱型でロマンチストな松原と衝突することは、遅かれ早かれ、周囲も予想していたことであった。
 正力が生み出した巨人は、戦前と変わらず日本プロ野球の雄であり人気チームであり続けていた。

 戦時中、そのグラウンドが芋畑になり、内野スタンドには高射砲やレーダーまで設置された後楽園球場に、かつてそれを憂いた白石が戻ってきた。
「おい、あれは誰だ」
「占領軍のマーカット閣下様を知らんとは、よほどの白痴だな」
「それはなんでえ。マッカーサー閣下のような偉え人なのか」
「偉えなんてもんじゃねえ。マッカーサーの次か、次の次か、次の次の次くらいか。とにかく、そりゃあ偉え人だ。なにせ新生日本の財界再編成の陣頭指揮にあたる御仁だからな。財閥や大会社とてあの人には頭が上がらんどころか、いつ睨まれるかとみな戦々恐々としているのさ」
「なるほどねえ。しかし、いくら戦争に負けとはいえ、かつての敵であるアメ公が日本の球場で始球式をやるなんて、あんまりだ―――」
 巨人と太陽ロビンスの公式戦。GHQのウィリアム・マーカットが、オーナーの田村や来賓、関係者が列席する内野最前列からグラウンドにボールを投げ入れると、それを捕った巨人のキャッチャーが、ピッチャーに球回しする。そして、ピッチャーがマウンド上でモーションに入るのを見た審判によってプレイボールが宣告され、試合がはじまる。
 内野ゴロを華麗な逆シングルで捌くショートストッパーの白石は、ボールが一塁に送られて打者がアウトを宣告される光景を見つめながら、かつて澤村らとプレーした戦前のこのグラウンドでの光景を回想していた。
 プロ野球が休止された中でも懇意にしてくれた企業経営者がいて、そのノンプロチームでプレーすることができ、野球から長く遠ざかることがなく最小限のブランクで済んだことは、戦争を生き延びたことも含め、野球選手たる白石にとっては幸運としか言いようがなかった。だが、これが叶わぬ者、戦地で散って行った者も多数いる。白石は此度の戦争で、たくさんの親友を亡くした。白石は「どうして自分だけが生かされたのか」という索漠とした自問自答をその心中で繰り返し、答えを出せないでいた。
 野球に携わる企業経営者には二種類の人間がいた。大人になっても野球熱が冷めやらず、企業経営の傍ら、少年時代からの憧憬を野球チームの所有という形で体現させてしまう者と、あくまで世の権勢を得るメジャースポーツたる野球を自社のプロモーションのための道具として捉える者である。
 スリーアウトを取り、ベンチに戻ってくる白石に「ようやった、賞金や」と、内野席まで呼び出して現金を渡す、チームのオーナーである田村は、この両面を持つ稀有な男であった。
「とにかく、いまうちは羽振りがええんや。銭ならなんぼでもありまっせ」
 良くも悪くもひたむきな情熱があり、澄みきった青空のような童心を持つと同時に、守銭奴のような打算的企業経営者の心も併せ持つのが田村という男であった。
「これはいったいなんだ。我が国のプロ野球も落ちたものよ」
 この試合を観戦していた作家の坂口安吾は、プロ野球の現状をこう酷評した。
「実力のある選手を戦争で多数失い、生き残った者はごくわずか。おかげでどこの馬の骨とも知れぬ者が、野球界には紛れ込んでいるようだ。しかも、試合中に金銭の受け渡しをするなど、そのスポーツマン精神の退廃は極まれり。はたしてこのような醜い見世物を『プロ野球』と呼んで良いものか」
 観客席を見渡すと、身なりの派手な若い女の姿が目立つ。この大半が、選手となんらかの関係を持つ女たちである。このころの野球選手の中でも、とりわけスタープレイヤーと、かつては「銀幕スター」と呼ばれた映画俳優の羽振りがいいことを女たちは知っており、彼らと男女仲になることが一種のステータスになっていた。
 

 昭和二十二年にはじまった浜井広島市長の平和宣言は、彼らがGHQに睨まれる格好の材料となった。以降、輪をかけて圧力をかけてくるようになった支配者に屈すまいと、静かな抵抗を繰り返した彼らは、限界まで水面下の交渉を重ねた結果、翌二十三年にも平和祭は開催され、平和宣言も発表された。
「平和祭と平和宣言をこれからも続けていけるかどうかは、我々広島市民の沽券にかかわる問題だ。平和宣言には死者への鎮魂、平和希求の決意を含有するのみならず、日本人を力でもって膺懲せんとする彼ら『民主主義国家』アメリカへのアンチテーゼという側面も持つ。だからこそ、これを未来永劫に続けてゆく使命が、生かされた我々にあるのだ」
 浜井たちが命の危険まで犯して行った駆け引きの結果も虚しく、三度目になるはずの昭和二十四年の平和祭は、中止が通達された。
 この年の初春、広島総合グラウンドにおいて、広島県立大学の設立資金を調達するため、戦後初となるプロ野球の試合が開催された。
 雲ひとつない抜けるような青空の下、すぐ傍を走る市電が石畳の軌道と鉄のレールの上を通過して軋む音と、集まった二万人ほどの広島市民の歓声が、けたたましくも協奏しているように聞こえる。
 爆心地である中島町から三キロほど南下したところにあるこのグラウンドは、野球のスタジアムとしては平凡な広さであるものの、観客席などの設備は整っておらず、観客はグラウンドのまわりの原っぱに座って応援をする。
「廣島総合大学設立資金募集 プロ野球公式試合 大阪タイガース対南海ホークス」
 南海ホークスの監督である鶴岡一人は呉の出身で、昭和六年、石本監督の広島商業で甲子園優勝を果たしたメンバーのひとりであった。いわば彼は石本の門下生である。
 石本の精神野球を受け継ぐ鶴岡は、かつて自分が鍛えられたように若き選手たちを厳しく鍛え抜き、南海ホークスを強豪チームに育て上げていた。
「この場に石本さんがいないとは、なんたることか」
 戦後初となる広島でのプロ野球の試合開催という場に広島野球の雄がいないという不条理を、鶴岡だけでなく、この場にいる野球関係者や観戦に訪れた市民がみな、嘆いていた。
「しかし鶴岡さん、広島人はほんまに、野球きちがいやなあ」
 そう言われた鶴岡は照れ臭そうにするが、すぐ現実に立ち返る。
 彼らの視線の先には、GHQ広島軍政部長のローレンス・クロワード大佐がいる。大柄で屈強ななりをした彼は、内野関係者席からグラウンド上のキャッチャーにボールを投じた。
「誰じゃ、あれは」
「鶴岡さん、知らんのかいな。あの御仁は泣く子も黙る広島の軍政部長、クロワード大佐殿や」
「こがいな球場にまで、占領軍が来るとはのう」
「占領軍はあかん。『進駐軍』と言わんと捕まる」
「けっ、なにが進駐軍じゃ。占領軍じゃろうが」
 クロワードによる始球式のあと、主審によってプレイボールが宣告され、試合がはじまる。
 広島という街はかねてより野球熱が高いという郷土性があり、戦前からはじまったプロ野球の監督、選手には広島出身者が多かった。少年期より黄塵舞う街のあちこちで野球に明け暮れ、中学校から野球部に入り、本格的に野球をはじめる。広島の少年たちはそのような風土で育つ。「野球狂」を育む土壌があるのだ。もちろん野球狂には男も女も、老いも若きもない。たった四年前、原爆投下という人類史上最悪の悲劇があり、それぞれが悪夢にもがく中で、野球さえあれば、あの日の悲劇を少しだけ忘れることができる。広島市民にとっての野球は単なる娯楽とは違う、市民の夢と希望を担うという特殊な性格を帯びていた。
 この試合を広島に呼び込んだのは、在京財界人たちによる「木曜会」という組織で、彼らは地方に野球の試合や相撲の興行を呼び、地方都市の経済活性化やスポーツ交流などを目的とした団体である。この主要なメンバーである元衆議院議員の松原昇太郎、中国新聞東京支局の河口豪ら、広島出身者、あるいは広島にルーツを持つ者らが、原爆の悲劇から立ち上がろうとする広島市民を勇気づけるものとして、これを郷里に興行した。
 内野席の最後列に、まわりの観客とは一線を画した、眼鏡に背広姿の身なりのいい男二人が並んで腰掛けている。この試合をメンバーの先頭に立ち積極的に誘致した松原と、広島市長として彼らに協力した浜井信三である。二人の後には、広島電鉄の伊藤信之、中国新聞東京支局の河口豪らの姿もある。
 溌剌としたプレーでグラウンドを駆けまわる選手たちに、観客の熱視線が注がれる。
「やはり、野球はいいものだ」
「野球界には広島出身の選手が多い。もし彼らを集めてチームをつくることができたならば、とても強いチームになるだろうな」
 久々に触れた野球の熱病にうなされるように、広島市民の感冒が再発する。
 浜井と松原は四歳違いである。
 広島に生まれた浜井は帝国大学進学のため上京、多感な青年期を東京ですごす。卒業後は広島に戻り、広島市の職員となる。昭和二十年八月六日に現職の粟屋仙吉市長が被爆死したあとは暫定の代理市長、木原七郎を支え、昭和二十二年、民選では初代となる広島市長に就任した。
 広島経済の再興の助力になればと、市長として「木曜会」に協力した浜井であったが、その表情はどこか物憂げであった。
 浜井は市長としての公務に忙殺されていたところ、平和祭が中止に追い込まれ、GHQに怯える日々をすごしていた。そのため心身ともに衰弱しており、白球を追う目もどこか上の空であった。

 結城ブレーブスが親会社の業績不振により一年で瓦解したあと、石本は、同じ国民リーグで戦った大塚アスレチックスのオーナーで、戦時中は軍需工場を経営し、戦後は洋傘の製造で身を立てていた大塚幸之助が買収した金星スターズの二軍チーム「金星リトルスターズ」の監督に就任し、全国のノンプロチームとの試合に明け暮れる日々を送っていた。
 ところが翌年、金星スターズは大映の永田雅一に買収されて「大映スターズ」と改めることになり、そりの合わなかった石本はこのチームを去ることになった。
 この年、永田の大映だけでなく、映画界全体に不穏な空気が漂っていた。とりわけ、永田の競合である東宝ではレッドパージの嵐が吹き荒れていて、経営者側は「二つのアカ『赤字と共産主義者』を追い出す」というセンセーショナルなスローガンを打ち立て、大規模な人員整理を強行しようと策動、それに対して従業員側は大規模な立て篭り事件を起こすなど、映画の製作と興行に支障をきたすほどの動乱を見せていた。
 かつては帝都としてその存在感を国内外に誇示していた東京も、東京大空襲をはじめとした数々の空襲に見舞われて灰燼に帰す死の都と化した。一方で、これを都市再建の好機とばかりに土建屋が活気を取り戻し、東京じゅうが建設工事の地を突く音と作業員の男たちの熱気で溢れていた。
 東京駅から丸の内方面に出てすぐのところ、GHQのSCAP(総司令部)が置かれている第一生命ビルからもほど近くにある「ホテル・テート」では、大蔵大臣に就任することが決まった池田勇人の就任記念パーティーが催されている。会場には、煌びやかなオードブルと酒が並び、政財界や野球界から招かれた背広姿の男や着物姿の女、軍服姿のGIたちが、池田の大蔵大臣就任を祝っている。
 野球界代表として招待された正力、鈴木、そして松原は、集まった記者に促され、池田との写真におさまる。
 池田は、スピグラのストロボを浴びて白く浮かび上がる顔から人柄の良さを滲み出させ、「残念だったね、松原君」と、その戦前よりの、代議士として、野球人としての功績を労う。
「みなさん、もう少し笑顔でお願いできませんか」
 そう言われた四人の表情はぎこちなく緩み、ストロボを浴び続ける。
「これに懲りず、また出馬したら良いではないか。私が全力で支援するよ」
 東京選挙区に鞍替えまでした松原であったが、結局、代議士としての復帰は叶わなかった。だが、自らの進むべき道を悟っているかのように、池田の労いを滔々と受け流す。
「いえ、これでいいんです。やれるだけのことはやった。気分はすっかりと晴れた」
 遅れてやってきたGHQのウィリアム・マーカットとレジー川田、CIE(情報教育局)局長のカーミット・ダイク准将、同新聞課長のダニエル・インボデン、INS通信社東京支局長のアーネスト・ヘンデルマンが、日本政財界の民主化について、この場にいる代議士に強く促す。
 それを聞いた日本人の誰かが、批判の主に悟られないよう小声で話している。
「ふんっ。我々のことは、我々が決めればいいんだ。『自由の国アメリカ』が、武力で他国を脅して、手前勝手な『民主主義』を押しつけるなど笑止千万」
「おい、発言には気をつけろ。奴らに聞こえたらどうするんだ」
 続けてマーカットが、近畿日本鉄道がプロ野球チーム「近鉄パールス」の設立準備をしているという話に触れる。
「フランク。しかしなぜ近鉄が『パール』なんだ」
「近鉄が本社を構える伊勢の志摩地方では、真珠(パール)がよく獲れるのさ」
 日本経済の民主化、特に戦前から脈々と続く財閥の解体を最重要のミッションとしていたGHQは、思いどおりに進まぬ民主化と、全国を襲うデモ、ストライキの波に苛立ちを募らせていた。
「進駐軍は企業統合政策を強く推し進めている。近鉄もそのひとつであろう」
「おおかた、合併統合させられて先細り、あるいは淘汰されることを恐れているのだろう。プロ野球チーム『近鉄パールス』をつくって心機一転、これを会社の宣伝媒体とし、もうひと稼ぎしてやろうということか」
「しかし雨後の筍ではないが、勢いでつくったような足元のおぼつかないチームがあまりに多い。近鉄もそのひとつではないだろうか」
「近鉄くらいになれば資本力はじゅうぶんにある。金に物を言わせて方々から選手をかき集めるだろう。しかしながら、彼らの参入を認めるべきかどうかは、判断に迷うところだがね」
 これを聞いていたレジー川田の視線が正力に向けられる。
「ミスター正力。あなたは近鉄をはじめとした新興企業に対し、日本野球連盟への参入を認め、門戸開放を推進すべきなのだ。それが、すなわち『民主化』である」
 押し黙る正力の心中には、自分たちが戦前に産み、戦火からも守り抜いたプロ野球を、彼らの推進する「民主化」の名の下に、彼らの言う「門戸開放」へと踏み切ってしまっていいのだろうか、それこそこれまで築き上げたものが水泡に帰し、いずれ自分たちまでも淘汰されてしまうのではないかという、とてつもなく大きな不安が横臥していた。


 濛濛と黒煙を上げながら走る車やバス、金属レールを滑るように走る都電から老若男女が溢れ出て、街のところどころに咲きはじめた梅や桜の花を見ては表情を綻ばせている。
 終戦から四年経ち、かつてのスタープレイヤーたちが次々と野球界に舞い戻り、娯楽に飢える人々の支持を得た日本のプロ野球は、その各チームの財政事情はともかくも、かつての活況を取り戻していた。戦争による中断で瀕死の重傷を負った日本のプロ野球の命脈はかろうじて保たれたのである。
 野球界では、「赤バット」の川上哲治、「青バット」の大下弘、「物干し竿」の藤村富美男、巨人への復帰を果たした「逆シングル」の白石敏男をはじめ、青田昇、別当薫、小鶴誠らのスタープレイヤーが観客を魅了し、その加熱ぶりは国民的スポーツの域を超え、社会現象と化している。歓喜の渦がグラウンドを覆い、それがやがて街に伝播する。やはり野球というものは、人類が生み出した最高のスポーツであろうと私は確信する。
 後楽園球場に、正力と松原、鈴木の姿があった。
 選手たちのプレーを見つめながら葉巻を燻らせる正力に、松原が切り出す。
「我が日本プロ野球は、どうにか黒字を見込めそうなところまでやってきました。そこで、進駐軍の言うように、この門戸を開放し、新たな企業の参入を促すべきだと思うのですが、正力さんはどうお考えでしょうか」
 松原の提案に鈴木が一太刀入れるように口を挟む。
「君も進駐軍流の『民主主義』を信奉するのか。アメリカかぶれの松原君らしい。まあ、ほかの商売はどうか知らんが、我々がやっているのは、戦前から培ってきた実績と経験のある者のみがやれる商売だ。門戸開放だか民主化だか知らんがねえ、プロ野球というものは、いきなり出てきた新参者が手を出せる商売ではないことくらい、君にもわかるだろう」
 鋭利な太刀のように斬り込む鈴木の言葉にも揺るがぬ松原が反駁する。
「龍さん。旧態依然としたこのプロ野球を、いま変えないと、未来はやってこないよ。日本プロ野球のさらなる発展には、門戸開放してチーム数を増やすことが、最も効果的で最短であると私は思う」
 二人に挟まれて沈黙したままの正力を尻目に、訴えかけるように松原が続ける。
「例えば十チームくらいになれば、いまよりもっと魅力的なリーグ戦の興行が可能になる。全国にチームが増えれば新しい層の獲得も可能になるし、より高い収益も期待できるようになる」
「松原君。君は情熱的な男だが、ときに熱にうなされやすい。よく考えてみたまえ。戦後の荒廃しきったこの日本で、人々は食うや食われずの時代。生半可な企業に加入させたところで、どうせそのチームはすぐ潰れる。『新規参入』などと言うのは簡単だがねえ、野球という商売は生半可な覚悟で手を出すと大怪我をする。私はそれを、国民リーグで厭というほど見せられた。もちろん、我が国のプロ野球のさらなる発展を願うのは私も同じだ。だからこそ、地固めが先。既存の組織、既存のチームで地道に興行をして着実にファンを開拓していくべきなんだ。これを拙速に広げれば、必ず綻びが生じる。いま儲かっている奴らだって、どうせ戦後成金のあぶく銭、一過性のものさ。そんなものを信用して我がプロ野球に迎え入れるなど、危険極まりない。張りぼての鉄骨が一本でも混じれば屋台骨が揺らぎ、すべてが崩壊してしまう」
 國民新聞記者時代は「カミソリ龍二」として知られた鈴木が、その禿頭赭顔をさらに紅潮させ、論議を制圧せんとする。声を荒らげることなく、まるで地の底から唸るような不気味な声と天性の狡猾さ、森恪や二・二六決起将校とも渡り合ったという迫力を持つこの男の切れ味は、中年期にさしかかっても衰えを知らない。
「いまは終戦後の復興期で、金まわりのいい会社はたくさんある。どこかが潰れたとしても、それを買い取りたい会社はいくらでも見つかる。それより、戦争で傷ついた人々が求めるのは夢と希望さ。そして人々に夢と希望を与えられるのは野球を置いてほかにはないんだよ。全国の野球のない街にチームをつくれば、街の人々は喜ぶ」
「人々に夢と希望を与えるのが野球の使命であるということには私も同意する。だが、夢と希望を与える側にはその責任があるからこそ、地に足のついた商売をしなければならないんだ。商売が立ち行かないなら、夢も希望もへったくれもないではないか」
 平行線を辿る二人の議論を見て、正力が長い沈黙を破る。
「実は、松原君のような意見は進駐軍だけでなく、国内、とりわけ政財界からも上がってきていてね。世論もそれが主流だと聞く。敗戦国民たる我々が、進駐軍の推進する『民主化』の潮流に抗うことは難しい。もうこれは、受け入れるべき現実なのかもしれない」
「正力さんまで、そんなことを」
「よく考えてみたまえ。これはまたとない転機かも知れぬ。プロ野球の世界を開放し、チーム数を増やして、全国に満遍なくチームを置いて大々的な全国興行ができるようになれば、参画する各社の宣伝効果が相乗的に高まり、それぞれの販路拡大に繋がる」
「それでは物事が短絡的かつ性急すぎます。戦時中は軍部に阿ね、戦後は進駐軍に阿るのですか。日本一国で欧米に立ち向かった皇国臣民の気概はどこへ行ったのか。嘆かわしいほどの凋落だ。だいたい、既存の球団はみな猛反対するに決まっている」
 正力を助けるように、松原が鈴木に切り返す。
「彼らも企業、利益優先だ。この話の要点をきちんと説けば、きっと賛同してくれるに違いない」
 鈴木は、松原の熱意を押し返すように、
「彼らは私と考えを同じにする部分が多い。私がここで猛反対しているのだから、彼らも同じだよ」
 その表情を硬直させ、煙草の煙を長く吐き出し、黙り込む。
「龍さんの気持ちもわからんでもないが、時代の波には抗えない。わしは松原君ほどの情熱家ではないし、あらゆる物事に熱を上げる彼にときおり仰け反ることもあるのだが、この話に関して彼が時流を掴んでいるように思う。龍さん、ここはわしの顔に免じて折れてくれ」
 正力が宥めるも、鈴木は頑としてその旗色を変えようとしない。室内に漂う強張った空気を断ち切るように松原が強引に切り出す。
「それでは、さっそく動き出します。よろしいですね。明日、新規参入企業を募る旨の記者会見を開きましょう。いまの大衆は民主化の話には飛んで食いつきます。この門戸開放を『民主化』だと喧伝することにより、世論を味方につける。なにより進駐軍のお墨つきだ。これを利用しない手はない。そして明日の会見を、その翌朝の読売だけでなく、その他主要各紙にも大々的に報道してもらう。そうなれば効果覿面です」
 翌日、日本野球連盟の事務所で会見を行った正力は、プロ野球の新規参入を認め、チームを増やすという声明を出し、各紙がそれを報じた。
 同じころ、東京と神奈川の境、多摩川上流にある巨人の合宿所から、白石が荷物を運び出していた。
「敏さん、引っ越しか」
「ああ、妻もおる手前、いつまでも寮暮らしとはいかんからな」
 東急東横線の都立高校駅からすぐ近くのところにアパートを借りた白石は、夫人の玉江とそこで生活をはじめた。
 帰宅した白石は居間にどっかり腰を下ろし、新聞を広げる。「プロ野球 破滅への道を辿るのか プロ野球改革の大波」という記事を丹念に読み込んだあと、玉江が「あなた、野球はどうなるんでしょうかね」と問いかけるも、白石は「そうじゃのう」と囁くように言ったあとしばらくの沈黙を置いて、酒をやりはじめる。
「正力さんがチームを増やすと発表してプロ野球界が活気づくと思ったが、内輪揉めでそれどころではなさそうだ―――」
 正力の会見については既存チームにとって青天の霹靂であり、彼らの激しい反発を呼んだ。また、読売新聞内でも正力のワンマンぶりに不満が噴出し、内紛状態に陥っていた。
 

 苦心惨憺する戦後の大衆の心を掴んだ流行歌が街のあちこちで流れ、銀座の歓楽街からすぐのところにある日本野球連盟の事務所にも、酒場の蓄音器から流れる流行歌が漏れ聞こえてきて、集まった背広姿の男たちの耳にもそれは入っているはずだ。しかし、そのような流行歌を楽しむ暇はないと言わんばかりの彼らの顔は、まるでその雲行きを暗示するかのように鈍重である。
 煩悶とした表情を浮かべる正力を中心に、松原、鈴木、新しく巨人の代表に就任した市岡忠男がテーブルを囲んでいる。
「我が日本野球連盟には、予想どおり、毎日、近鉄、京都新聞、熊谷組、国鉄、松竹が加盟申請をしてきています。それ以外にも、大洋漁業、名古屋鉄道、西日本新聞、西日本汽船、西武、広島、星野組、リッカーミシンなどが申請をするものと思われます。正力さんの報道発表がかなりの反響を呼んでいます」
 殺到する加盟申請について報告する松原に、鈴木が返す。
「いくらなんでも多すぎだ。これでは収拾がつかなくなる。松原君、これらをすべて受け入れるつもりかね。それとも、いくつかふるいにかけるのかね。門戸開放を謳いながらこれをふるいにかけるなど、落とされた企業は黙ってはいないだろうねえ。進駐軍からあらぬ疑いをかけられるかもしれない。それに予想どおり、既存の球団は猛反発しているよ。『プロ野球も進駐軍式の民主化の世論に靡いてしまったのか』とね。さあ、どうする」
 松原を揺さぶる鈴木の言葉に、正力も戸惑う。
「我々の黒字を見て儲かると踏んだんだろうが、ここまで多いとは思っていなかったよ。チーム数が多すぎるとリーグ戦の興行に支障が出る。このままだと三十チームまで増えてしまう。ふるいにかける労力も時間も我々には残されていない。とはいえ、せっかく盛り上がってきたこの機運を逃したくはない」
 鈴木の態度は一貫している。
「正力さん。私は何度でも言いますが、あなたが苦労して生んだプロ野球に、やすやすと新規参入を認めて、本当にかまわないのですか。ひとたび壁を壊してしまったばかりに自らが淘汰されてしまうということは、どの世界にも起こり得ます。私は、プロ野球界にもこれと同じ結果が待ち受けているような気がしてならないのです。改革をした結果、プロ野球そのものが潰れてしまうということでは本末転倒。もちろん、いずれチームを増やすことであれば私もやぶさかではないのだが、単に時期尚早、拙速だと言っているのです」
「くどいようだが、このご時世、進駐軍がうるさいんだよ。新規参入を認めないのは彼ら流の民主化、厳密に言えば『反トラスト法』に抵触する恐れがある。これを理由に彼らに因縁でもつけられたら、たまったものではない。それでプロ野球が潰されてしまったら、それこそ本末転倒ではないか。もちろん、戦前から日本野球連盟の事務局長として苦心してくれている龍さんの憂う気持ちもわからんではない」
「なんと言おうと、私はプロ野球の門戸開放には反対です。正力さん、いまからでも遅くはない。過日の会見において出した声明は、ただちに撤回すべきです」
 鈴木の言葉に一瞬、なにかを考えるような表情を浮かべた正力を見た松原が、すかさず返す。
「ようやく戦争が終わったものの、人々の心には深い傷が残っている。こういうときには野球の力が必要なんだ。街では子供だけでなく大人でさえ、野球を渇望している。ただ、プロ野球という国民的娯楽を肌身で享受できるのが都市圏の人に限られているという現実がある。この機会にぜひともチームを増やして、この不公平を解消すべきなんだ」
「君も懲りない男だね、松原君」 
 そっぽを向いたようにして、煙草を燻らせる鈴木。
「まあ、この話は日本プロ野球の未来を決めるものだ。各所への根回しも必要だろう。拙速に進めず、熟議を重ねて決めたほうがよさそうだな」
 長引く議論に尻込みするかのような正力を、松原が説き伏せようとする。
「正力さん。いま、我々の目の前には大きなチャンスが到来しているのです。終戦後、読売を含めた各社が挙ってスポーツ新聞や雑誌を創刊し、どこも喉から手が出るほど野球のネタを欲しがっています。プロ野球ファンの裾野を広げるならいまを置いてほかにありません。それには門戸開放、つまりチームを増やすことが効果的、これが特効薬なのです」
「特効薬ねえ。私は劇薬だと思うがなあ」

 松原と近いGHQのレジー川田やマーカットは、日本の政財界はおろか野球界にまでその影響力を持ちはじめていた。特にマーカットのGHQ内における担当はESS(経済科学局)で、日本の経済界を連綿と牛耳ってきた財閥を解体するだけでなく、あらゆる産業を広く開放することをミッションとしていた。もし新規参入を拒む産業があるとなると、彼らが戦後日本に持ち込んだ「民主化」政策の一つである「反トラスト法」に抵触する恐れがあり、是正の対象とされ、潰しにくる可能性もある。これは日本のプロ野球も同様であった。
 加盟申請をしている企業のうち、古くから学生野球を後援してきた朝日新聞に対抗してゆくためには自社主催の選抜中等学校野球大会だけでは心許ないと思ったのか、なんとしてでもプロ野球に参入することを命題としていた毎日新聞は、ほかに先んじて完成されたチームを持っており、大企業でもある彼らの加盟申請を拒むなどということは不可能に近かった。そのため、鈴木を旗手とする門戸開放反対派の攻勢は成りを潜め、ひとまずは毎日と、いち早く既存チームへ根回をしていた近鉄の加盟だけは受理されることを前提に話が進められた。
 だが、やはり話はこれだけでは済まず、毎日と近鉄以外のチームの加入がなし崩し的に追認、チーム数の倍増はもはや避けようのない事象とされ、戦後の日本プロ野球は否応なしに揺籃期を迎えることになる。
「毎日が参入してくれるのは大変有難いのだが、読売(うち)と毎日は競合だ。同じリーグにいては客の食い合いになってしまう」
 毎日の加盟には当初、正力が難色を示していたものの、結局、この加盟には既存チームのほとんどが賛成し、正式に承認された。日本経済界において大きな力を持つ大新聞社であるということ、すでにプロでも戦えるレベルの野球チームを持っているということ、都市部に拠点を置き、安定的経営が見込める企業であるということがその理由であった。関西に拠点を置く近鉄も、同様の理由で承認された。
「進駐軍のマーカット閣下が、プロ野球チームを増やした暁には、アメリカの大リーグ方式、つまり『二リーグ制』を導入してはどうかと提案してきておられる。それだけでなく『両リーグの優勝チーム同士で“日本シリーズ”でもやったらさらに日本のプロ野球界は盛り上がるだろう』という、たいへん夢のある進言までしてくださっておる。わしはね、ぜひこれを叶えたいと思っている。もちろん、わしとて進駐軍に介入されるのは不愉快なのだよ。だが利用できるものは利用すればいい。それがプロ野球を未来へ継承する道であるのなら、それは正しい道なのだと信じている」
 鈴木は反論こそしないものの、その表情からは忸怩たるものが読み取れる。
「とにかく、この話は来週の、全球団が参加して行われる日本野球連盟緊急総会の議題に乗せて、その稟議に委ねられることとします」

 後日、同じ場所で既存プロ野球全チームの代表が一堂に会し、「日本野球連盟緊急総会」が開催され、丁々発止としたやりとりが交わされていた。
 重厚で大きなテーブルを背広姿の男たちが取り囲み、一様に煙草を燻らせていて、室内は濛々としている。
 入口から一番遠い奥の席に正力と鈴木、巨人代表の市岡忠男、そこから時計回りに、中日ドラゴンズの赤嶺昌志、大陽ロビンスの田村駒治郎、大阪タイガースの富樫興一、南海ホークスの川勝傳、阪急ブレーブスの小林一三、大映スターズの永田雅一、東急フライヤーズの五島慶太、そして末席に松原という順で着席している。
「困りますなあ。我々の預かり知らぬところで勝手なことをしてもらっては」
 阪急の小林がそう言うように、既存チームの彼らは門戸開放には反対であり、そもそも理事会の了承なしに勝手に方針を打ち出してしまったことに憤慨している。巨人、中日、大阪以外はすべて門戸開放反対の立場を取り、正力と松原は糾弾されていた。
「とにかく、プロ野球の民主化はもう避けられないのだよ。どうか各員、これに承服してくれないだろうか」
 宥める正力にも反対派の譲歩は見られず、阪急の小林が正力を突き放す。
「正力さん。断っておきますが、反対と言っても、すでにチームを持っている毎日さんと近鉄さんは、うちらとは古い仲。これに関しては事後になってしまうが、加入を認めさせてもらいます。しかしなあ、あとの企業はなんですか。聞いたこともない、どこの馬の骨とも知れない、ろくでもない新興企業ばかりではないか。そんなもんと一緒にやれるわけがない。残念だが、そういうことで、そちらとは別のリーグを立ち上げさせてもらいます。日本野球連盟からは脱退しますので、お見知り置きのほどを」
「小林さん。馬鹿なことを言わないでください。そんなことは、この正力松太郎が認めない」
 門戸開放を認めないスタンスの彼らは、一方では自分たちと古くから付き合いのある企業や都市部に拠点を置く有力企業、つまり毎日と近鉄についてはこれを認め、味方につけておいたほうがよいという、ダブルスタンダードの方針を取った。
 阪神の富樫興一は態度を明確にしておらず、それを見た大陽の田村が「冨樫はん。どないでんの。一緒にこちらでやってくれまんねやろ。大阪がきてくれるんやったら、大陽、近鉄、西鉄、南海、阪急、大映、それから商売敵の読売巨人と同一リーグでは厭やと言うてはる毎日を合わせたら八チームになり、おさまりがつく」と、その描く構想を熱く語りはじめるが、富樫にはそれが浸潤することなく、黙り込んでいる。
 彼らとて七チームでは興行が成立しないため、あくまで冨樫の率いる大阪タイガースがどちらの陣営につくかによってこの議論の方向が大きく変わるのだが、態度を明確にしない冨樫を理由にして、正力が議論を中断する。
「時間が足らない。まもなくやってくるサンフランシスコ・アスレチック・クラブに申し訳ないから、この結論は持ち越しとしよう」

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