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音楽エッセー#8 音の先に居る人。音の先に描く心。

 作曲の制作が落ち着いた。久しぶりに友人会うことになり、ふたりで新宿でラーメンをすすりながら語り合った。

 この年になるまで芸術制作に取り組み続けて来たのだから、食いさがって制作してモトを取れるように頑張りたい。制作するなら発表したい。発表するなら誰かに鑑賞してもらいたい。そして鑑賞して頂いた方には、喜んでもらいたいと願うし、その喜びは誰か他の人にも伝わればなお嬉しい。

 私はピアノを弾く時(練習であっても)その演奏を誰かを想定して、その人に届けているような心構えで弾く。自分の発したメロディの1音ずつが耳を通り過ぎていく。それらが相手の耳にも届き、体と心を通り過ぎていく。その感触を強く想像すると相手と一体化したかのような感覚が現れる。心の中に温もりが満ちてきて滑らかにメロディが生まれてくる。

 例えば自分が訪れたことのない知らない街を想像する。駅があり区役所があり、商店街があり、アパートやマンションがあり、幼稚園から小中学校があり、図書館がある。見ず知らずのこれらの向こう側に、見ず知らずの人と生活があるわけだが、その向こうに自分と同じような気持ちが無いか想像してみる。例えば駅を降り立った1組の親子が商店街で買い物をして、アパート群の一つに消える。彼らはラジオを付ける、CDをかける、テレビをつける、ポッドキャストを開く。そして音楽が彼らの体と心に流れ込んでくる。疲れで固まった体がほぐれてくる。その日の記憶が反芻される。未来が想像される。よし、晩ご飯でも作るか!さぁ子供たち、明日はまた学校だろう?忘れ物はないか?など。そんな光景を想像を私は描き、その人に向けて音を届けるつもりでピアノの音に触れる。

 制作したものを発表する場としてnoteは気に入っている。noteの投稿を見ていると、noteの向こう側には、優しくて力強く、ともすると傷付き易いかも知れない持ち主がたくさん居られるような気がしている。自分の内面にあるこだわりや偏った趣味嗜好、繊細な悩みを自ら大事にして慈しむことができる持ち主であり、知らない相手が立っていても、その人が持つ喜怒哀楽を自分なりに想像して寄り添える持ち主ではなかろうかと推察している。絵、写真、音楽、旅行記、これらの投稿に感じる愛情はとても励まされるので、胸を借りて当たり稽古をさせていただきたい気持ちになる。

 先日ある方が私のホームページをfacebookで紹介して下さったところ、そのページの閲覧数が上がった。ネットのSNSの中で交流によって現実で人の交流が増えるのか?現実の人の交流によってSNSの交流が増えるのか?いずれにせよ、より積極的に行動することで人と人の交流は生まれ、お互いのコンテンツが紹介され高め合うことにつながる。より多くの人に自分が聴かれると思うと、力が漲ってくる。これまで以上に自分の中心にあるお気に入りや、好きなことや、自分が大きく広がっていくような感覚に自信を持って、大事に育てて行こう。


 


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