佐藤義則

1977年生まれ。埼玉県の生んだ偉人、渋沢栄一と同じ深谷市生まれ&新生浦和レッズを背負…

佐藤義則

1977年生まれ。埼玉県の生んだ偉人、渋沢栄一と同じ深谷市生まれ&新生浦和レッズを背負う漢、関根貴大とおなじ鶴ヶ島育ち。

最近の記事

7月9日(2005年)このダービーから始まった裸の戦士との歩み

自分にとってこのダービーはサポーターとしての自分の方向性を決めた試合だった。 スタジアムに通いはじめてからゴール裏の色んな場所でとにかく浦和レッズの力になるために熱く戦ってきた。 サポーターは試合に行って声と手拍子で選手に力を与えて試合結果に一喜一憂するものだと思っていた。 ただ、次第に自分の中で一つの疑問が浮いてきた。 試合で頑張るだけがサポーターなのか? 自分の中ででた結論はゴール裏でカリスマ的存在の人の近くで行動する事だった。 自分にとってゴール裏のカリスマは裸の戦

    • 5月6日(2014年)旧国立競技場ラストマッチ

      様々な歴史が積み込まれた旧国立競技場のラストマッチがこの日行われたヴァンフォーレ甲府vs浦和レッズだった。 確か甲府からはバスが何台も出てサポーターが来ていたと思う。ホーム開催なのにバスツアーで来るのは大変だよね。でもこのバスツアーにレッズサポーターも乗れちゃってたのはどうなんでしょうね?知り合いの山梨在住のレッズサポーターは平然とこれに乗ってきてた(笑) スタジアム入場時には国立競技場の絵が書かれたハンカチを貰った。こういう記念物は貰うと何気に嬉しい。 試合内容、

      • 5月3日(2006年)オシム監督

        2006年は浦和レッズがリーグ制覇した年なので良いイメージしかない。ただ、もちろん負けや引き分けで悔しさに塗れた試合もある。だけど悔しさとは勝つチャンスがあったからこそ受けるものだと思う。 だが、この2006年に唯一悔しさが全く起こらなかった試合がアウェーのジェフ戦だった。 ハッキリ言って試合内容は詳しくは覚えていない。 覚えているのは唯一つオシム監督の作り上げたジェフのサッカーが殆どの時間レッズを上回っていたという事。 あの試合はサポーターも決して油断などがあった訳ではなく

        • 5月1日(2013年)アジアチャンピオンズリーグ

          前年の2012シーズンにリーグ3位となり5年ぶりにアジアの舞台に立つことになった。そして、始まった2013シーズンのACL。初戦の広州にはこの5年の間にレベルが上がったアジアの戦いを見せつけられ完敗。だが、広州にはホーム埼スタでやり返し浦和がアジアで上を目指せることは証明できた。 だが、同グループの全北にはホームで完敗してアウェーでドローと勝てずに悔しさに塗れた! そして迎えたGS最終節のムアントン戦 GS突破のためには勝つことが最低条件のこの戦いに僕はサポーター仲間と共

        7月9日(2005年)このダービーから始まった裸の戦士との歩み

          3月24日(2012年)柏木?阿部ちゃん?

          この日は夜勤明けのため羽田12時発の飛行機に乗る予定だったのだが北海道が雪の影響で1時間遅れるまさかの事態が発生。流石に焦ったが仕方ないと諦め時に身を任せて何とか前半途中に札幌ドームに到着。 スタジアム内に入り試合に直ぐに入らずにゲート旗を準備(笑)『今日の試合はきっと阿部ちゃんがやってくれる』と信じて22番をゲート旗に記す! 準備の終わったゲート旗を持って仲間の待つ場所は合流する。合流して暫くして試合が動く! 前半終了間際に『浦和の太陽』がゴールを決めて同点に追いつく

          3月24日(2012年)柏木?阿部ちゃん?

          3月16日(2008年)オジェック解任

          前日のホーム開幕の名古屋戦で不甲斐無く敗れ、これはちょっとヤバいなーと思った。だが、はっきり言って仕方ない状況とも思えた。 前年の2007シーズンを最後にチームを離れた選手が何人かいたが何よりもチームに穴が空いたのは絶対的存在のロビーの怪我による不在であった。 苦しい時にチームを助けてくれるプレーで選手、サポーターを引っ張ってくれたロビーの不在は様々な影響が垣間見えた。 でも、この時の僕は思っていた。オジェックならばきっと立て直して挽回してくると。 だが、この時のクラ

          3月16日(2008年)オジェック解任

          3月11日(2007年)このサッカーを貫ければ

          2007年シーズンのリーグ第2節vsアルビレックス新潟戦。 試合結果は2-2のドロー。しかも、終了間際に追いつかれてのものだったので正直言って勝点を落とした試合である。 だが、シーズン序盤は内容重視の僕にとっては後半に魅せてくれたサッカーに期待感が上がった!相手ボールになった瞬間に2人3人と猛烈なプレスでボールを奪い取りマイボールにして攻撃を仕掛ける。このサッカーをモノにすればJを席巻できるし、アジアの戦いを堂々と進んで行ける! 試合中に裸の戦士やROSSOのリーダーと

          3月11日(2007年)このサッカーを貫ければ

          3月11日(2011年)あの日あの時

          2011年3月11日は決して忘れられない、忘れてはいけない日。 あの日、工場内の充填ラインでいつもと同じ仕事をしていた、あの時14:46いきなり大きな揺れに襲われた。今までに経験したことのない揺れに急いで工場の外に出る。なかなか揺れが収まらない。振り返ると工場の裏にある首都高速埼玉線が物凄く揺れている。阪神大震災の高速の崩壊が頭をよぎる。だが、徐々に揺れが収まり首都高速も無事だった。工場内の自分の机に戻りPCで地震を調べると東北が震源で津波警報も出ていた。 これはヤバそう

          3月11日(2011年)あの日あの時

          3月7日(2007年)遂に足を踏み入れたアジアの舞台

          2005シーズンの天皇杯を制して掴んだアジアの舞台に2006シーズンのリーグ王者として挑んだアジアの戦い! 選手入場に合わせて初のアジアの戦いに挑む選手にデカ3でサポーターの思いを伝える。 初戦の相手はインドネシアのペルシク・ケディリ戦。未知のアジアの相手にリーグ王者を掴んだサッカーで挑む浦和レッズ。試合内容&試合結果は別としてアジアの舞台に高揚している自分がいる。 『ASIA』に挑む『俺たちの浦和レッズ』! 『世界に魅せつけろ!俺たちの誇り!』 アドレナリン出まく

          3月7日(2007年)遂に足を踏み入れたアジアの舞台

          3月3日(2002年)忘れもしないw

          前年のJ1復帰イヤーも結局は残留争いとなったが啓太や達也などの若手も試合に絡みチーム内に何か変化が起こればという期待はあった。そんな中で新監督としてオフトが就任。日本代表を変えたオフトならばレッズも変われるかもと心が躍り開幕を楽しみにしていた。 そして迎えた開幕当日、思いもしなかったことが僕を襲う。 朝、猛烈な腹痛で目が覚め動くことすらできない。尋常ではない痛さに親も驚き急いで近くの総合病院に連れて行ってもらいそのまま即入院。緊急性はないとの事でとりあえず痛み止めを打ち翌

          3月3日(2002年)忘れもしないw

          3月2日(2013年)クソ遠くてクソ寒かったスタジアムで会心の勝利!

          前年のミシャサッカー1年目は思うようにいかない事もあれど目指すサッカーに光を見て新シーズンに心躍らせた1年だった。 そして迎えた2013年シーズン。前年度王者のサンフレッチェと2年連続の開幕戦(フィンケの1、2年目は連続で鹿島に当たり、ミシャはサンフレッチェと連続で当たりとJリーグは好きだねーw)となりました。試合前から天気がコロコロと変わり晴れのち曇りのち雨のち雪と慌ただしい中での試合となりましたが内容は前年と違い興梠、元気、陽介の見事な絡みから先制ゴールと良い出だし!(

          3月2日(2013年)クソ遠くてクソ寒かったスタジアムで会心の勝利!

          まさか・・・

          あの試合は後になって振り返れば色んな思いが募る試合でした。 J2から戻ってきたガンバに内容は完勝できた事。 この年から加入したGKの西川周作が試合展開や時間によってパントキックの蹴り方を変えていたこと。 試合前のスターティングメンバー発表時に一部のサポーターがレッズのある選手に対してブーイングしていた事。 試合後にあるサポーターと今年こそは頂点に立とうと誓い合い固く握手した事。 と、色んな思いがあるけどやっぱり1番に感じるのはこの試合がみんなと行った最後のアウェー遠

          まさか・・・