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介護職の教育に必要なもの~飛騨高山の事件の取材を受けて

オンナ・コドモは読まないこと。もしくは、いま、リアルに充実されている高いヒトは読まないでください。

0.取材を受ける

先日、大手新聞社の記者さんがいらして、お話をしていた。『介護の教育について』だ。事の発端は、その記者さんはとある方に取材を依頼したが、当の本人はその取材を受ける気はなく、『現場でのOJTも含めた介護職員の育成なら自分よりも飯塚の方がマシ』という理由で、こちらにお鉢が回ってきたわけだ。

こういう取材ってのは乗り気ではなく、そもそも、先生ってのが大っ嫌いで、くそったれと思っているし、その僕がなぜかケアワークアカデミーという介護の学校をやっているのが不思議だし、そもそも、くそったれの生徒だった僕が、生徒を持つ資格などないと思っているわけで。こちらが介護のことを知らないにもかかわらず、大上段から、より知らない人に偉そうに講釈を垂れることなんて、あとで辱めを受けるに決まっているじゃないか。と考えているところである。

ましてや、介護労働の本質と、介護そのものの本質と、それを行う一人の人間としての成育歴などを考えて、介護人材の育成などという、『対象者と一緒にいて気持ちの良い人間を作る』なんてことは、おこがましくて恥ずかしい行為だと思う。それでも後世のために礎になって、辱めを受け続けることが、介護の教育者のあるべき姿だとしても、それで対価をもらうなんてことは、よっぽどの天狗かねじが壊れた厚顔でしか、耐えられない。

というわけで、耐えられない取材を受けることになる。なんてのは、苦痛でしかない。だから、40を超えたら、恥の上塗りをしないように謙虚に頭を下げて弾丸にあたらないように生きていかないといけない。(顔をあげるとすぐに狙撃されるからね)

1.介護の狭い空間の中で縛られる人々

 取材にいらした方の聞きたいことってのは、『岐阜県高山市の介護老人保健施設「それいゆ」で、7月末から半月で3人が死亡し、2人が負傷した。』いくつかの事件といくつかの事故の話。記者は岐阜県の担当で、地元で行われた事件と事故について調べる中で、『介護の教育はどのようになっているのか』と、疑問に感じたらしい。介護業界におわす多くの方は、聖人君子でいらっしゃるわけで、ナイチンゲールにあこがれた白い魂を持った正義感にあふれ、高い母性を持った優しい人。マリアとか、ユリアとか、お花畑よりも美しい白で埋め尽くされた人間を印象付けるのだろう。決して間違っちゃいないが、いつの日も時代を変えるのは、強い怒りを持った人であって、その人たちはリーダーであり、コピーではない。

 僕たちパンピーは、面白おかしく、自分のできる、やれる期間まで、人のためになったような気をして介護をする。結果として人のためになっていることがたくさんあるだろうし、人のために全くならないこともたくさんある。やってきたことが自分の中に残ろうとも、お客さん自身が消失する。耐えきれない喪失感にさいなまれることが必須の仕事である。人のためになる仕事と、暖かい、明るいキャッチコピーが世に舞うたびに、自分の愚かさに絶望する。でもな、みんな頑張れよ。まあ、少なくとも現場でパンチ・ド・ランカーになっているうつ病の君たちに頑張れっていうのもどうかと思うけど、そんな明るい家族計画みたいなキャッチコピーを作っている奴らってのは、たいてい君らと同じではないから、後ろ側に闇を洗浄してキャッチ―にするいくつかのクソには、吐瀉すればいい。労働者目線でいうなれば、介護労働ってのは3Kでしかない。そういったものを超えてなお美しい世界ってのは、君たちの脳みその中には、ないことも、ない。

 でも、美しいコピーが僕たちを美しい人間に押し込める。僕たちは世の中に縛られ、圧死されるんだ。『介護職としてあるまじき』というものを平気で、世の中から言われる。『だって職業で金もらっているじゃん』ってね。まるで奴ら舌を出しているようだ。そう、人間なんかじゃない、だから、奴らだ。どうせなら、美しくある希望として神様にまで祭り上げてくれればいいのに。世の中は、自分より下賤なものを美しく飾りこめば金になってだませるんだ。江戸時代の農業ならまだいいが、江田避妊だぜ全く。

2.無力な介護職という現状を、介護の入口でどこまで伝えると、現場のためになるのか?

 人は生き物だから必ず『死』ってものがあって、それに触る仕事ってのは意外とたくさんある。『葬儀屋』しかり、『医師』しかり、『介護』しかり、『ゴルゴ』しかり。地元の葬儀屋なら、知っている人を送ることがあろう。医師もよく知っている人を送ることがあろう。ゴルゴも狙撃先を入念に調べるだろう。しかし、『介護』は、今の仕事で最大の時間を対象と過ごす。そして、『死んでほしくないけど、死んでしまうくせに、生かすことすらできない』ので、パンチ・ド・ランカーになるのである。

 2025年には、今の増加ペースに加え、人口一万人につき、100人ほど、介護人材を増加させなければならないらしい。国全体で考えると、山田さんでもなく、田中さんでもない『高齢者』の増加に伴い、君でも飯塚さんでもない『介護職員』を増やさなければならない。と、鼻くそをほじりながら言う人が多い。それが、『社会問題だ』と。入り口政策は、『猫だまし』に近い『介護業界ステキでしょ』計画。男はバカだから、キレイな女子が介護に集まれば、ほいほいついていくって、(熟女系)ガールズバーみたいなことだったり。

 つまり、入り口できれいなキャッチで誘って、そこに入ったら組織の中の外の世界とは違う理屈に押し込められるってだけだと、措置~介護保険前期の時代の詐欺と変わらないんだけど、今はそういった拉致監禁も進化して、入口よりも手前からぼったくりバーの囲い込みが始まっている状態。入口のところで、無垢な(少なくとも死に対して無垢な)人に実はもう、選択肢を提示していないのだと感じる。まあ、国策としても、学校にしても、それをやるってこと自体『調べなかったお前が悪い』という自己責任論を展開する。誤解を恐れずに言うと、『死は美しいときもある』のだけど、美しい死(終焉)を共にするってのは、何人も、何人も、目の前で大切な人が亡くなって、失敗して、それなりに良かったねって思って、なんてのを何周もしないとたどり着かないと、僕は、思う。それでも人の死ってのはまだ、僕はわからない。油断して無垢にしていると頭がかちわれるから、残念なことに、僕は自分が壊れないように、今お会いしている人が常にいつ死ぬかわからないという予防線を張りながらお付き合いをする。老若男女のみならず、自分がいつ死んでも混乱しないように自分の死体を想像しながら予防線を張りながら生きるようになった。それは、単純に呪いのようなもので、ビデオだか、Youtubeを見たら呪われるのと、何ら変わらない。違うのは、僕のなかの貞子は普通のヒトよりも年を取っているってこと。

3.精神状態が尋常じゃないと感じることが多い

 精神に支障をきたすと、『あの頃のように戻りたいけど、もう、無理』って話を聞く。そうか、マジメに人の生きるとか死ぬとかにかかわるのは、PTSDを喰らうようなもので、すでに正気ではない。ゾンビで、死人だ。それでもなお、生きているってこと。さて、どうすれば介護の最初の教育で伝わりますかね?

 みたいな話を取材で、したんだけど、『う~ん。記事にはならないかもしれませんね。』ですって。そりゃあ、そうだ。

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