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藤野と京本の4コマ漫画の意味、そして「パクり」「フィクション」について『ルックバック』

京本には生きていて欲しかった。
藤野と一緒に連載やって欲しかった。

そんなことばっっっかり考えてしまわないですか???????????????

藤野のように前を向かなきゃ行けないんだろうけど、生きてて欲しかったって考えたっていいじゃないか。


藤野は京本の家で4コマ漫画を描いた。そこには京本の死が描かれていて、のちに京本は本当に死んでしまった。
この4コマ漫画は京本の未来を暗示していたのだろうか?

今回は藤野と京本の人生を4コマ漫画に重ねてみて気づいたこと、の感想妄想考察など。
長くなってしまったけど是非最後まで読んでいただきたい。


あくまで個人的な感想妄想考察です。
あと不快にさせたらすみません。
説教臭いのが嫌いな人は絶対に読まないで下さい。



目次

1、引きこもり世界大会決勝 
2、ファーストキス  
3、奇策士ミカ 
4、真実 
4ー1 本当の父 
4ー2 京本の過去?(余談です。ここは本筋と全く関係がないです) 
4ー3 藤野は「お父さん」なのか? 
4ー4 「真実」の男の子は本当に京本をモデルにしているか? 
4ー5 男の子は誰なのか? 
4ー5ー1 藤野と『オディプス王』 
4ー5ー2 藤野とエディプスコンプレックス 
5、背中を見て 
5ー1 フィクションと偶然とパクリについて 
6、藤野の空想(もしもの世界) 
7、4コマ漫画を“振り返る” 
7ー1 奇策士ミカ 
7ー2  真実 
7ー3 引きこもり世界大会決勝 
7ー4 ファーストキス 
7ー5 背中を見て 
8、おわり 
8ー1 事件について 
8ー2「Don't look back in Anger」について 






1、引きこもり世界大会決勝

(藤野が京本の家で描いた4コマ漫画だけタイトルがつけられていないがこのnoteを書くにあたって他の4コマ漫画と区別するため、「引きこもり世界大会決勝」と題させていただく)

「引きこもり世界大会決勝」で京本は一体誰と戦っていたのだろうかと読み返してみると、たぶん藤野と戦っていたんじゃないか、と思う。

藤野は京本の絵をはじめてみたとき、「そっか…私が学校行ってる間に絵の練習してるんだ」と言ったあと、

「私より絵が上手いなんて許せない」と闘志を燃やした。

「藤野VS京本=絵が上手い世界大会決勝」なんじゃないだろうか。
言い換えれば、

「引きこもった時間=絵が上手い」ということだ。

藤野は京本の絵を見てから友達とも遊ばず、家に帰ってもずっと部屋の中で絵を描くようになった。
藤野は「漫画好き」を解放したものの、絵の世界に引きこもろうとした。
しかし友達や家族の「出てこい(漫画をやめろ)」の声に、藤野は折れた。

そして卒業の日、藤野は京本の家の、スケッチブックが山積みにされた廊下を見て「負けた」と思ったかもしれない。
しかも「卒業証書を届けにきた」といっても京本は引きこもりをやめない。

今まさに絵の練習をし続けているかもしれない

藤野がわざわざ家に上がり込んだのは京本に「出てこい」と言いたかったからではないだろうか。
藤野はものすごく負けず嫌いで、そしてここだけものすごく意地悪だったと思う。
全く出てこない京本に対して「引きこもったまま死んだ」という皮肉なオチを思いつき、そして4コマ漫画に描いてしまった。

またはその真逆で引きこもったままの京本を心配していたのかもしれない。このままじゃ死んじゃうよ、と。

けど藤野が白紙の4コマ漫画を見つけたときの表情からして心配していたという感じではないだろうなぁ…。どうだろう…。

藤野が漫画を辞めて「お母さんこれ捨てといて」とスケッチブックの山を持ち上げるコマがあるのだが、
このスケッチブックと、スケッチブックを持ち上げたときに落ちた白紙の4コマ漫画が、なんと京本の家の廊下にある。(と、ぼくは思っている)

藤野は卒業の日、京本の家で過去に捨てたスケッチブックの上に卒業証書を置いた。これは藤野が絵から完全に決別しようという暗喩でもあった。

藤野は京本と直接会ったことはなかったが、“卒業”によって京本との繋りは完全に切れるはずだった。
藤野が4コマ漫画に死を描いたのは「別れ」を現していたかもしれない。

にしても「死」というオチはかなり辛辣だと思う。しかも名指し。
藤野は4コマ漫画で京本の死を描き、のちに京本は本当に死んでしまった。

まるで“予言”のようだ

京本が死んでしまったことを「私のせいだ」と藤野が思ったのは、「京本を部屋から出したから」というのと、
自分の4コマ漫画が「死を予言してしまった」と感じたからではないだろうか。

改めて藤野が学年新聞に載せた4コマ漫画を見てみると“予言”になっていることに気づいた。

以下4コマ漫画を“予言”として読んでみる。

2、ファーストキス 

「ファーストキス」が描かれたのは藤野が京本の存在を知る前だったが、藤野と京本の出会いと別れを予言していた。

登場する女の子は京本で、男の子は藤野だ。
ふたりはお互いの“絵”に恋をした。
そして藤野と京本の“やくそく”は「漫画を見せる」という約束だ。

藤野はいつも京本によって生まれ変わっていると言ってもいいかもしれない。京本もそうだ。

はじめ藤野は「つまらなそう」と言って漫画家になる気はなかったが、
京本の絵を見て本気で絵に取り組み、
4コマ漫画から漫画へ転向し、
素人からプロの漫画家になった。


京本はそれまでスケッチブックに絵を描いていたが漫画の背景を描くようになったし、
引きこもりをやめて美大へ行くと決めた。

藤野と京本の生まれ変わりには“やくそく”があった。

ふたりの間で果たされなかった“やくそく”もあった。
「漫画を連載できたらすっごい超作画でやりたいよね」という約束だ。
藤野は京本の死を知った時、この約束を思い出していた。

「ファーストキス」では男の子が隕石となって女の子の生存を脅かす存在になった。
男の子は藤野であるはずなのだが、「隕石」は通り魔事件をも想起させる。

藤野が「私のせいで京本は死んだ」と思っているため、「隕石」は藤野だと解釈すべきなのだろうか…?


3、奇策士ミカ

「奇策士ミカ」も藤野がまるで未来を知っていたかのような漫画になっている。

ミカは運動会の徒競走で他の生徒のレーンには学校の廊下を敷き、走れないようにした。
ミカだけ学校の廊下を敷いていないから走ることができる。

「ミカ」とは学校に来ていない京本のことだ。

「京本のヤツ 私が学校行ってる間に絵の練習してんだ」と藤野が言うように、

(田園風景とても綺麗だ。“徒競走”で“ミカ”に負けまいと走り出す藤野)

”京本は学校に行っていないから絵の上達スピードが早いんだ”
という藤野の感情が「奇策士ミカ」にそのまま描かれている。
藤野は学校に行っていて、絵の練習時間が少ない。
藤野は“学校の廊下のレーン”という校則の上にいるから走ることが出来ないのだ。

「奇策士ミカ」を描いたとき藤野は京本の存在を知ってはいたが、絵はまだ見ていなかった。
藤野は「学校にも来れない軟弱者が漫画なんて描けますかねぇ?」と完全にナメくさっていたから、京本の絵を事前に知っていたということもない。


4、真実

(ここは妄想多めですがお付き合いください)

6年生の学年新聞に載せた4コマ漫画「真実」はどうだろう。

これまでの4コマ漫画の主人公は、(藤野は全く意図していないが)京本がモデルになっているといっていい。
「ファーストキス」では女の子の生存を脅かす隕石(通り魔、藤野?)が落ちてきたし、
“学校”というレーンを通らない引きこもりの京本こそが「ミカ」だったし、
引きこもり世界大会では京本が登場している。

ということは「真実」の男の子も京本である可能性が高い。

(*ここからは藤野と京本の心境うんぬんではなく、物語の構図について書きます)


4ー1 本当の父

「真実」の中で男の子は担任の先生を「本当の父だ」と確信していた。
藤野の4コマ漫画を“予言”とし、男の子を京本として描いているとしたら
「男の子=京本→先生が本当の父だと確信した」ということになる。

京本の父に関する描写はルックバックの中に一切登場しない。しかし「先生」は登場している。

藤野の担任だ。

よくよく考えると藤野の担任は藤野と京本を引き合わせるという重要な役割を担っている。
藤野の担任の先生こそが藤野と京本が出会うきっかけを作った。

ということで

“藤野の担任は京本のお父さん説”の爆誕である!!!(???)

京本は初めて藤野に会ったとき「毎週プリント届いて 最初から 3年生の頃から」と言っている。

3年間毎週毎週プリントを届けていたのは誰だったのか????

そして藤野の担任は、藤野に卒業証書を届けてほしいと頼んでいた。理由として「オレみたいなオッサンが届けるよりいいだろ」と言っている。

っていうか京本は隣のクラスなんだから京本の担任が届けるでしょ普通???


いくら学年新聞で一緒に漫画を載せていたからといっても卒業証書は京本の担任が届けるのが自然だ。
隣のクラスの生徒まで気にかける素晴らしい先生という見方も出来るが、

藤野の担任は京本のお父さんだったから京本を気にかけていた、としたらどうだろう。

藤野の担任は藤野だったら京本と仲良く出来るとわかっていて卒業証書を届けさせたのではないか。

担任が藤野に卒業証書を届けるように頼まなければ藤野と京本は卒業式の日に出会うことはなかっただろう。

藤野の担任が藤野と京本が出会うきっかけを作った。

藤野と京本の関係に、大人の男が介在している。
そして大人の男といえばもう1人、“通り魔”だ。

通り魔は藤野と京本の別れの原因となっている。

担任と通り魔は真逆の存在だ。

しかし通り魔の存在によって「もしもの世界」では藤野と京本が出会っていることから「通り魔=出会いのきっかけ=担任」でもある。

そしてさらに藤野自身漫画を描いたことによって京本との「出会いと別れ」の両極の側面を併せ持っている
(引きこもり世界大会決勝を描いたことによってふたりは出会い、そして藤野は別れの原因を「私があの時漫画を描いたせい」だと思っている)

さらにさらに藤野は京本から「藤野先生」と呼ばれていることから、「(藤野)先生=担任」という関連が生まれ、

「藤野先生(出会いと別れ)=担任と通り魔(出会いと別れ)」という構図も見えてくると思う。

4コマ漫画「真実」では
男の子は生徒として「先生」と呼ばなくてはいけないのに「お父さん」と呼んだことをみんなが笑ったことで「お父さん=呼び間違い」としてみんなに認識された。
しかし
男の子にとっては「先生」こそが呼び間違い
「お父さん」の方が正しいのだ。

そうなると
「藤野先生」→呼び間違い→藤野お父さん
「担任」→呼び間違い→お父さん

“藤野の担任は京本のお父さん説”の爆誕である!!!(2回目)

(藤野=お父さん説については4ー3で掘り下げる)

そして先程の通り「藤野先生(出会いと別れ)=担任と通り魔(出会いと別れ)」であることから、

「担任=お父さん=通り魔」でもあるのだ。
京本を殺したのはお父さんだったのか?

そして「藤野先生=お父さん」であることから、京本を殺したのは藤野だったということになるのだろうか?

だとしても京本を殺したのは藤野だった、という解釈は全く納得できない。

4コマ漫画「真実」は、予言の要素もあるが“藤野が知るはずのない物語”でもある。


4ー2 京本の過去?(余談です。ここは本筋と全く関係がないです)

藤野と京本が出会った日は“卒業の日”だった。
藤野の担任(京本のお父さん?)はもうプリントを届けに来ることはない。
藤野が卒業証書を届けにきたことが、(藤野にとっては漫画からの卒業だったが)京本にとっては「お父さんとの別れ」を象徴し、
京本は「お父さん(藤野の担任)という恐怖から解放された」と感じたから扉を開けて外へ出てきたとも思えてしまう。

すべて連想ゲームでしかないが、この連想で行くと京本はお父さんによって“人が怖い”と思うようになった、のではないかと考えてしまう。
(余談終わり)


4ー3 藤野は「お父さん」なのか?

4コマ漫画「真実」を読むと
藤野先生→呼び間違い→藤野お父さん

となり、藤野がお父さんということになるのだがこれは一体どういうことなのか。

言うまでもなく『ルックバック』では“背中”がテーマとなっている。
藤野が雪道で京本に
「おー、京本も私の背中みて成長するんだなー」という台詞で「父の背中を追う」という言葉を連想した人は少なくないのではないだろうか。

というか正直、最初読んだ時にここだけ違和感があった。
藤野のここの台詞だけなんかキャラが違うと思った。
藤野がオッサンっぽい、というか父親ぶっている感じがした。

照れ隠しと冗談を混ぜつつ、でも虚勢は張りたいみたいな感じが絶妙にオッサンっぽい(これも差別か)

京本を外に連れ出し、社会的ルールを京本に教えるという意味でも藤野は“父親的”役割を担っている、

というか、

藤野の振る舞いを見ていると、“父親であるかのように振る舞おうとしている”という印象を受けた。


4ー4 「真実」の男の子は本当に京本をモデルにしているか?

藤野を父とするなら、「真実」の男の子は京本ということになるのだろうか?
しかし改めてルックバックを読んでみると京本が“男の子(子供)”として描かれているかというと、そうでもない。

なぜなら京本には藤野に対する深い“愛”があり、“愛情”とは“母親的”役割だからだ。となると「真実」の男の子が藤野である可能性が出てきた。

それに作中京本は“母”であることが示唆されている。
まず藤野がお母さんに「捨てといて」と頼んだスケッチブックと白紙の4コマが↓

京本の家の廊下にあったこと↓これは”お母さんがスケッチブックと白紙の4コマを捨てていなかった”ことを暗示している。(とぼくは思っている)

↑「京本=お母さん」という繋がりが生まれる。
↓そして電話の“京本”の表示の後に“お母さん”の表示のコマが描かれており、「京本=お母さん」が強調されているように思う。

母が京本だとして、藤野は男の子なのか、それともお父さんなのか、
もし男の子なら、藤野が実は京本の背中を追いかけていたことも納得出来る。(以前のnoteで京本の背中についても書いているのでよかったらこちらへ↓)


4ー5 男の子は誰なのか?

『ルックバック』はたぶん神話の『オディプス王』と
心理学者フロイトの「エディプスコンプレックス」に関係があるかもしれない。
エディプスコンプレックスの心理はギリシア神話の『オディプス王』の心の構造と同じとされているらしいので関係はあると思う。(読んだことはないが)

4ー5ー1 藤野と『オディプス王』

まずはオディプス王とルックバックを比べてみようと思う。

(参考にさせていただいたページのURLの埋め込みがうまく出来なかったのであらすじを箇条書きにします)

あらすじ

・国の王だったライオス王は「息子が生まれたらその息子は父を殺し、母と結婚することになる」と予言されたため、ライオス王は生まれたばかりの赤ん坊の足をピンで刺して山に捨てるよう命令した

・いろいろあって赤ん坊はポリュボス王に引き取られる

・赤ん坊は「オディプス」と名付けられる(「腫れ足」という意味)

・オディプスは本当の両親を知らずに育つ

・ある時オディプスは「父親を殺して、母親と結婚する」という予言を知り、ポリュボス王から離れようと決意して旅に出る

・その旅先が本当の両親が治める国だった

オディプスは本当の両親を知らないまま、本当の父を殺し、本当の母と結婚し、王となる

・国が荒れ始める

・後に真実を知り妻(本当の母)は自殺

・オディプスは自分の両目をピンで刺し貫いて潰した

幸も不幸も運命に定められているなら人間って何のために生きるんだろう…。
にしてもオディプス王が別の国の王に引き取られたのは偶然なのだろうか?
ライオス王は予言を知りながら子どもを生み、ポリュボス王の国を滅ぼそうと企んで子どものいないポリュボス王のもとにオディプスが行くよう計ったのではないか???
あるいは捨てられたという恨みを晴らすため、本当の両親を知っていてライオス王の国を乗っ取ったのではないか???とも思えてしまう。
いや、感想は関係ないのでこのくらいにしておこう。

さて、
オディプスが受けた予言は、藤野の4コマ漫画の予言のようだし、
オディプスという名前が“腫れ足”というのも藤野が空手キックして骨折したことと関連があるようにも思えるし、
オディプスは父を殺して母と結婚した、
そして藤野は通り魔(父?)を空手キックして京本(母)と出会った。
あとオディプスが本当の両親を知らなかった、という点は「真実」の男の子と似ている気がする。


4ー5ー2 藤野とエディプスコンプレックス

藤野を“息子”として、今度はエディプスコンプレックスについて考えてみる。
(エディプスコンプレックスについても勉強不足のため、いろいろ変だったらコメント下さい)

ルックバックをエディプスコンプレックスになぞらえると、
藤野は母(京本)を手に入れるため、父のようになろうとしていた、という感じだろうか。

藤野が実は京本の背中を追いかけていたとするなら
「京本=父」となるので「母=京本=父」となり、京本は父と母の両方を併せ持っていることになる。


(鬼滅の刃やチェンソーマンの時にも思ったが、「親」というものを従来の、「男は父親的役割、女は母親的役割」と“性別で区別しない”というスタンスは今の価値観にぴったりだなと思う。父親にも母親的側面はあるし、母親にも父親的側面を持っているのが人間だ。新しい時代の新しい構図だなぁと勝手に思っている)

仮に京本を息子として考えると“母”が不在になってしまうので、
「真実」の男の子は藤野だった、と仮定して良いかもしれない。

いやいや、そうなると今までの「先生」と「お父さん」という考察は何だったんだ?


5、背中を見て

さて、「真実」については一旦置いといて、
京本の描いた4コマ漫画「背中を見て」は予言になっているだろうか?

(「背中を見て」は京本が描いたのか、藤野が描いたのか、という議論もあるが、
個人的には京本が描いたと思っている)

「背中を見て」の中では藤野は通り魔から京本を救った。
しかし実際、藤野は京本を助けることができなかったので予言とは言えない。
が、
「京本が藤野の空想を4コマ漫画で描いた」というような、すごく奇妙だが、予言めいた漫画になっている。

これは一体どういうことだろう?


5ー1 フィクションと偶然とパクリについて

藤野の描く4コマ漫画には、引きこもり世界大会決勝やファーストキス、奇策士ミカのように、なぜか“予言する力”を持っていた。「真実」、「背中を見て」も含めると“予言”、というよりは、
あたかも“藤野と京本が知るはずのない出来事を漫画で描く力”があるように思える。

ここで重要なのは、4コマ漫画はフィクションだということだ。

4コマ漫画を“予言”ではなく“フィクション”だとすると、

“藤野と京本が知るはずのない出来事を漫画で描く力”があるように思えたのは

実は誤りで、

“藤野と京本が知るはずのない出来事を漫画で描く力”が
“あるかのように”
“作者が描いている”のだ。

読者は”『ルックバック』はフィクションである”ということを前提に読んでいる。

が、
藤野と京本にとってはその世界が「現実」
であり、
4コマ漫画が「フィクション」だ。

ここまで散々「藤野の漫画は予言だ」と言ってきたが、
藤野の4コマ漫画を、“フィクション”として読むと“予言”もフィクションであるということになる、

そうなると、4コマ漫画はもともと予言ではなくただのフィクションなのだから、予言が現実と同じになるわけがないのだ。

そう解釈したとき、
4コマ漫画がどういう意味を持つのか、と考えると

「フィクションはフィクションでしかない、それが真実なんだ」

という、作品からのメッセージなのではないか、と思ったのだ。

ぼくはこれまで、4コマ漫画を“予言(これから現実に起こる出来事)”として読んでしまい、藤野と京本にとっての「現実」と4コマ漫画の“フィクション”を混同してしまっていた。

藤野と京本に超能力者のような力はない。
ふたりが知るはずのない出来事を漫画で描けたのは“偶然”だった。

それを京本の4コマ漫画「背中を見て」が証明していたのだ。

藤野が京本の家で
京本が描いた4コマ漫画を見て驚いていたのは
京本の4コマ漫画が、藤野の空想とほぼ同じだったからだ。

ここで「パクリ」疑惑が浮上するが、どちらがパクったのか、といえばもちろんどちらでもない。

もし京本が藤野の空想を知っていればそれは「京本がパクった」ことになるわけだが、京本は既に通り魔に殺されており、京本が知っているなんてことはありえない。

逆に藤野が京本の4コマ漫画を知っていたら「藤野がパクった」ということになるが、
藤野の空想は京本が通り魔に殺されない限り空想することすらあり得なかった。というかわざわざパクってまで空想するわけがない。
そもそも京本の4コマ漫画を見たときの驚きようからしてあの時が初見だ。

パクりはありえない。
なのに藤野の空想と京本の4コマ漫画が似ているのはなぜなのか、

藤野の空想と京本の4コマ漫画が似ているのは“ただの偶然”だからだ。

藤野の空想と京本の4コマ漫画がほぼ同じだったという事実が、
これまでの4コマ漫画が予言のようだったのはただの偶然であり、4コマ漫画はフィクションだということを証明した。

そして、
すべての4コマ漫画が藤野と京本にとって“これから実際に起こり得る(又は起こった)出来事”であるとするならば、
“フィクション(4コマ漫画)”に“独創性(オリジナリティ)”など存在せず、“起きた出来事のパクりでしかあり得ない”という逆説だと思う。


『ルックバック』を読んで、「これは自分の物語だ」と感じた人は多いと思う。
もしもあなたが、ルックバックを読む前に「自分の物語」を描いて、その後に『ルックバック』を読んで「自分の描いたものと同じだ」と思ったとして、それは「パクり」になるだろうか。
答えはNOだ。
なぜなら「友達にライバル意識があった」とか「親友との別れ」など、藤野に起こった出来事は、あなたにとっても“実際に起こり得る出来事”だからだ。

あなたが想像していることは、既に誰かが空想しているかもしれない。
しかしあなたがその物語に込めた意味と、誰かが物語に込めた意味は全く違うはずだ。

藤野は“京本を助けたかった”という想いで“もしもの世界”を空想していた。
京本はどんな意味を込めてこの4コマ漫画を描いたのか?

たぶん京本は過去を描いている。
“「斬ってやる!」と言っていた人物”は、通り魔ではなく
京本の“人が怖いという恐怖そのもの”で、藤野がその恐怖をやっつけてくれたという意味を持っていたのではないだろうか。

京本は内面(精神)に起こった体験を4コマ漫画に描いていたのだと思う。

「背中を見て」で京本は藤野への感謝の気持ちを込めたのではないだろうか。

藤野と京本の4コマ漫画は同じもののように見えるが、その4コマ漫画に込めた意味はそれぞれ全く違う。

作品が似ているからといってそれを「パクリだ」という言葉で片付けて良いのだろうか?

読者は「パクリだ」と騒ぐ前に、作品に込められた意味、その“背景”に目を向けなくてはいけない。

ファンタジーなら独創的か、というとそうでもない。
例えば「天使」は人間の姿に鳥の翼を背中につけている。
そして頭の上には光る輪っかがついている。天使の輪の起源は後光(ごこう)と言われており、つまりは“光”である。

天使の姿を考えた人は(本当に見たのかもしれないが)

「人間」と「鳥の翼」と「光」を“合体”させただけ”であり、

「人間」と「鳥の翼」と「光」を“模倣”したにすぎない。

この3つは“実際に存在するもの”であり、
“天使”という概念が出来上がる前に人間も鳥も光も既に存在していた。
フィクションは独創的(オリジナリティ)なもののように思えて実は“実際に存在するものを組み合わせただけ”なのである。
全く天使を知らなくても、「人間」「鳥」「光」を知っていれば、偶然にその組み合わせで天使に似たものが出来上がってしまう。

組み合わせが誰かとカブッたとき、人は“パクリだ”と言う。しかし人は“実際に存在するもの”でしかフィクションを作れないのだから、カブるのが当たり前なのだ。

藤野の空想が先か、京本の漫画が先か、
パクった、パクられた、という通り魔の問題は、そもそも不毛な争いなのである。




6、藤野の空想(もしもの世界)

『ルックバック』は公開されてから2度修正されている。
最初の公開が7月19日、
1回目の修正が8月2日、
2回目の修正が9月3日、である。

どのルックバックを読んでも、通り魔の動機と藤野の空想に出てくる通り魔の言葉は完全には一致しない。

・2回目の修正
通り魔が美大を襲った理由として「ネットに公開していた絵をパクられた」と新聞で公開されていたため、
藤野の空想の中に「パクった」という言葉が出てくるのは自然な流れではあるが、
「見下しやがって」という藤野の空想は事実とは異なる。

・最初の公開
通り魔の動機「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」に対して
藤野の空想は「パクった」となっていてこれもまた事実とは異なる

・1回目の修正
通り魔の動機「誰でもよかった」に対して
藤野の空想は「見下しやがって」「社会の役に立てねえクセに」であり、これも新聞が報道した事実とは異なる。

どの通り魔も「新聞の報道」と「藤野の空想」には食い違いが発生していた。

重要なのは、新聞の報道を「真実」と位置付けているとすれば、藤野の空想は空想でしかなく「フィクション」だということだ

さらに言えば、新聞の報道を読んで、藤野が通り魔の人柄を想像したとき、実際とは違う人物像になってしまったのではないか、ということだ。

例えば我々読者が情報(新聞とか4コマ漫画とか)を受け取った時、その情報に対して読者がありとあらゆるさまざまな解釈をしたとしても、
その想像は“個人の主観”による空想になってしまうことがほとんどではないだろうか。
(このnoteも全て裏紙の主観で書いている)

ぼくは『ルックバック』のキャッチコピーに「時代を抉(えぐ)る」と書いてある意味が全くわからなかったのだが、
“藤野の空想”と“新聞の報道”のちぐはぐさに気づいたとき、

「根拠のない誹謗中傷」

という現代の社会問題をテーマにしていたのだと思った。

“真実”と“空想”を混同してはいけない。

ぼくらは現実社会において“真実”を置き去りにして、相手の事を自分勝手に空想し、“フィクション”を作り上げてしまっていないだろうか?


京本が描いた4コマ漫画「背中を見て」で藤野の背中にツルハシが刺さっていた。
これは京本が過去、「藤野先生は漫画の天才です」と言ったことを気に病んでいたからではないだろうか。

京本は藤野の人柄を勝手に空想し、“漫画の天才”という人物像を作り上げてしまった。(いや藤野天才だけどね)
藤野は漫画を「描くのはまったく好きじゃない」と言っており、

京本は自分が藤野が漫画を描く道を”選択させてしまった”と思っている。
そして選択させてしまったのに、自分は藤野の連載を手伝わずに美大に行くと言って裏切ってしまったと感じているのではないだろうか。

藤野も同じことを思っている。
京本が美大に行かなければ通り魔に殺されることもなかった、と。
美大に行くきっかけを作ってしまったのは自分だと責任を感じている。


7、4コマ漫画を“振り返る”

4コマ漫画を予言ではなく、フィクションとして再度読み直してみる。
それから、藤野と京本の“背景”にも注目する。

7ー1 奇策士ミカ

藤野は「奇策士ミカ」を描いた後、学年新聞で京本の絵を見て衝撃を受けた。
藤野は家でも、学校の授業中も、休み時間も絵を描くようになった。
”ミカ”とほぼ同じ条件で勝負に挑んだのだ。

しかし藤野は6年生の学年新聞で自分の絵と京本の絵を比べて絵を描くのを辞めてしまう。

藤野は頑張っても京本には及ばないと悟った。
藤野は“ミカ”と同じ条件で徒競走に挑んだ。だけど勝てなかった。

「奇策士ミカ」(フィクション)では“条件が勝敗を決める”ことを示唆していたが、現実はそうではなかった。

その後、藤野は京本の家の“廊下”で、京本の“努力”そして“長い期間辞めずに描き続けた結果”を目の当たりにした。

(“学校の廊下のレーン”と”京本の家の廊下”が掛かってたんだなぁ…)
藤野が目の当たりにした現実は藤野の空想を遥かに越えていた。

漫画から得られる教示は少なからずある。が、
もしも藤野が、自分の描いたフィクションを“現実”だと思い込み、“条件が勝敗を決める”と信じてしまったのだとしたら、フィクションと現実を混同してしまっていた、ということにならないだろうか



7ー2  真実


この4コマ漫画は謎しかなかったが、前述の通り、「真実」もフィクションなのだ。

少しずつ整理していく。
先程からずっと言っているが“フィクション”がキーワードだ。

『オディプス王』はフィクションであり、それに関連がありそうな「空手キック」も藤野の空想(フィクション)だということだ。


『オディプス王』(フィクション)と「エディプスコンプレックス」(現実)は、『ルックバック』においては
「フィクション⇔現実」の対比として位置付けている
、のではないだろうか。

「オディプス王=藤野」、「「真実」の男の子=京本」という解釈は、
『オディプス王』がフィクションなのだから、フィクションとして読まなくてはいけない。
フィクションである4コマ漫画「真実」から空想した「先生=お父さん」、「藤野=担任、通り魔」という相関図はただの空想でしかない。読者がフィクションとして楽しむには問題ないが、
ただ藤野と京本の世界での“真実”ではない。


もう一度言うが『オディプス王』(フィクション)と「エディプスコンプレックス」(現実)は、
「フィクション⇔現実」の対比になっている。

藤野と京本の“現実”を読み解くにはエディプスコンプレックスに当てはめるべきだ。


実際、現実の藤野はずっと京本の前では父のようになろうと虚勢を張っていた。
となると藤野は「息子」という立場であり、父のようになって京本(母)を手に入れたいというエディプスコンプレックスのような状態だった。

それを想定して考えると、
京本が描いた「背中を見て」を読んで藤野は、
自分は「お父さん」でもなく「藤野先生」でもない、誰かの背中を追わなくてもいい、
藤野は
”藤野歩で良いんだ”、
という“アイデンティティの獲得”だったのではないだろうか。


(余談:「藤野の担任によって京本は引きこもりになったのではないか」と、個人主観の空想で勝手に悪者のような人物像を作り上げてしまったこと、
もしもぼくが藤野のいる世界の住人だったら「根拠のない誹謗中傷」をする奴になってしまっていた)


7ー3 引きこもり世界大会決勝

4コマ漫画では京本は引きこもったままだったが、実際京本は部屋を飛び出してきた。
藤野はこの反応を全く予想していなかったと思う。京本は藤野に“予想外”をもたらす存在なのかもしれない。
京本は藤野の事を藤野先生と呼び、サインが欲しいと言うくらいの大ファンだった。

藤野が描いた皮肉っぽい4コマ漫画を見たら、
怒るか、落ち込むか、とにかくネガティブな感情になるのが当然だと思うのだが、京本は少しも落ち込んだ様子がなかった。
京本はこの4コマ漫画を皮肉とは受け取らなかった。

なぜか?

4コマ漫画のオチが“引き込もり”から抜け出す勇気になった?
「藤野先生に会わずに死ぬのは嫌だ」と自分を奮い立たせたのか?
勇気というか、藤野に対する“愛”?

もしかしたら京本は、
タイトルのない4コマ漫画、そして「京本」という実名を出す違和感から「いつもの藤野先生じゃない」と感じて部屋を飛び出したかもしれない。

藤野先生がこの4コマ漫画を描いたことには、なにか深い理由があるのかもしれないと考えを巡らせたかもしれない。

事実、京本は「どうして6年生の途中で4コマ描くのをやめたんですか」と聞いている。
京本は藤野の“背景”を知るために部屋から出てきたのではないだろうか。

藤野は担任に卒業証書を届けるよう頼まれた時も凄く嫌がっていたので、藤野は京本のことが大嫌いだったのだと思う。
京本の家の廊下に積み上がった“努力”を知ってなお、敗北感と嫉妬から京本の「死」を描いていた。藤野は京本の背景を認めようともしなかったのだ。

対して京本は「死」を描かれたにも関わらず、それでも藤野の背景を知ろうとしたのだとしたら、
これを”愛”と言わずしてなんというのだろう。
背景を知ろうとすることは、相手を思いやることだ。

小学校の卒業の日、突然京本の部屋に4コマ漫画が入り込んできたのだが、
京本が亡くなって藤野が京本の家に行ったとき、同じことが起こった。
藤野は連載を休み、京本の家の廊下に座り込んで動くことができなかったのだが、藤野の足元に京本の4コマ漫画が落ちてくる。
京本はいつも背景しか描かない。なのにちゃんと人物とストーリーを描いていた。藤野は「いつもの京本じゃない」と感じただろう。そして扉を開けた。


7ー4 ファーストキス

『シャークキック』を休載し、藤野は京本の家を訪れている。
京本が生まれ変わって家にいるだなんてことはない。
家に行っても京本はいない。

藤野が京本の部屋に入ると『シャークキック』が並び、机の上にはアンケート葉書、扉にはサインした半纏。

藤野はサインをしたあの日、京本に「話出来たら見せても良いよ」と約束した。

藤野は嘘を付くとき、「まあ」というのが口癖だ。
(↓この時も藤野は何ともないように振る舞ってはいるが本当は一緒に連載をやりたかったはずだ)


↓この時、藤野は本当は漫画の賞に出す話は考えていなかった。

(他にも「まあ」というシーンは多々ある)

藤野は負けず嫌いだから咄嗟に出た言葉だったと思う。
そしてそれが本当のように振る舞っている。
しかし約束が藤野に漫画を描かせたわけではない。
やる気がなければそのまま無視することもできたはずだ。それでも藤野は京本に漫画を見せるという約束を守った。
藤野に描きたいという気持ちがなければ描けないだろう。

それに藤野は「話を考えてて」「話出来たら見せてもいいよ」と言いはしたが、“賞に出す”という約束まではしていない。賞に出す漫画を完成させるのに1年かかっている。
でまかせで付いた嘘で、ここまでは出来ないだろう。
約束を交わしたとしても、約束を守るか、破るかは本人の意思だ。

賞に出す漫画の背景は京本が描いていた。
京本から手伝うと言い出したのか、藤野が頼んだのかはわからない。
京本は藤野の漫画を手伝ううちに背景美術に目覚める。そして「一人の力で生きてみたいの」と言って藤野から離れた。

藤野と京本はお互いに依存していたと思う。

漫画の背景を描いたのも、もちろん京本の意思で決めたことは間違いないが、
はじめの頃は藤野と一緒にいられるだけで良かったのではないだろうか。引きこもりだった頃からずっと、京本は“藤野先生”に憧れていた。
そして藤野と過ごすうちに“人が怖い”という恐怖が薄れていった。“恐怖”はその人を縛り付ける“呪い”のようなものだ。それが解けたからこそ京本は“自由”になり“自分が本当にやりたいこと”に気付けたのだ。

ふたりは「連載を超作画でやりたい」と約束していた。
京本の死を知って休載したのは藤野にとって京本が精神的支柱であり、“やくそく”を支えに頑張ってきたからだ。
京本が美大を卒業し、超作画に”生まれ変わ”って、連載を一緒にやるという“やくそく”を果たしてくれると藤野はずっと信じていた。
藤野の“もしもの世界”で京本に「アシスタントになってね」と言ったのは、
美大を卒業した京本を誘いたいという願望だ。

もし京本が通り魔に殺されていなかったら、京本は藤野のアシスタントになっていただろうか?

これについては意見が別れると思うが、

京本は藤野のアシスタントにはならなかったと思う。
(今回の解釈に限っては)

4コマ漫画、「背中を見て」がその答えだ。


7ー5 背中を見て

4コマ漫画はフィクションだ。

しかし、「背中を見て」だけは藤野にとって“真実”だったのではないだろうか。背中が傷付いているのは本当だったと思う。

藤野の過去を振り返ってみると、藤野はいつも京本に負け続けている。
京本が学年新聞に絵を載せるようになってから藤野が褒められることはなくなってしまった。
京本はずっと絵を描いているのに藤野は周りからは漫画をやめろと言われてしまうし、京本の絵を越えようとしても越えられなかった。
美大に行きたいと言う京本を説得しようとしたがアシスタントにすることも出来なかった。

そして京本自身も、「背中を見て」は“真実”として描いていた。
4コマ目に傷付いた藤野を描いたのは「藤野を傷付けてしまった」と感じていたからだ。
もし京本が、超作画になるために美大に入り、卒業後に藤野のアシスタントになろうと思っていたのなら違う結末を描いていたはずだ。
京本が美大に行きたいと言った時、4コマ漫画のように、
まるで何とも思っていないように藤野は“振る舞う”が、
本当は傷付いていたことを京本はわかっていた。

この4コマ漫画は、藤野に救ってもらったにも拘らず、「超作画でやりたい」という“やくそく”を守らず藤野から離れてしまったことへの“懺悔”だ。


京本は“やくそく”はしたが、“破る”という選択をした。この選択は紛れもなく京本の意思だ。

そして「6、藤野の空想(もしもの世界)」でも書いたが、
藤野は漫画を「描くのはまったく好きじゃない」と言っており、“漫画を描く道を選択させてしまった”ことへの懺悔でもある。

藤野はこれまで“京本のために漫画を描いている”と思っていたと思う。
藤野が再び漫画を描きはじめたのは確かに京本がきっかけだった。
だけど本当に描き続けるのか、辞めるかを決めるのは自分自身だ。
『シャークキック』に「この続きは12巻で!」と書いたのも、もちろん読者のために描くことは間違いない。
だけど読者との、そして京本との約束を守るか、破るかは自分の意思だ。
藤野自身に続きを描く意志があるからこそ藤野は描き続けようと思うのではないだろうか。
藤野はこれまでもずっと”藤野歩”として自分の意思で漫画を描くことを選び続けてきたのだ。

藤野は「背中を見て」で“自分の意思で漫画を描くことを選んできた”ことに気付き、
同時に京本も“自分の意思で人生を選んできた”ことを悟ったのではないだろうか。

藤野は京本が死んだのは「私が部屋から出したせい」だと思い込んでいたが、それは違う。

京本が絵を描くようになったのも、きっかけは4コマ漫画だった。
でも京本が絵を描くことも、背景美術に目覚めたのも、美大に行くかどうかを決めたのも京本の意思だ。

藤野はずっと「引きこもり世界大会決勝」で描いた「死」が“真実”だと思い込んでいた。
この4コマ漫画が「京本を美大に行くことを選択させるきっかけになった」と思っていた。
しかし京本が描いた「背中を見て」を見て、「京本が自分の意思で選択してきた」ということを、京本が教えてくれたのだ。
この瞬間、「引きこもり世界大会決勝」は藤野にとって“フィクション”になった。

もし京本が「藤野に漫画の道を選択させてしまった、傷つけてしまった」と思っているのなら、

藤野はこの4コマ漫画を京本にとっての“真実”ではなく、“フィクション”にしなければならない。

藤野は京本に漫画を描く道を選択させられたわけではない、そして、超作画を京本と一緒にやるという“やくそく”は叶わなくても、
藤野にその意思があるのなら、ひとりでも行動を起こし「超作画でやる」という夢を叶えることができるはずだ。

藤野は京本のために、そして自分の意思で歩きだしたのだ。


8、おわり

8ー1 事件について

『ルックバック』という作品は、「Don't look back in Anger」に関連のある
マンチェスターテロをモチーフにしている、
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドという映画をオマージュしている、

ということを『ルックバック』の方から提示している。
(これはSNSを見て知ったんだけど、たぶんSNS見てなかったら一生気づかなかった)


またはそれの逆でマンチェスターテロとワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドを、『ルックバック』が出来上がった後に作者が初めて知って作中に忍び込ませたのかもしれない。
どちらが先かはたぶんどっちでもいいんだろうけど。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドは“フィクション”で、マンチェスターテロは“現実”なのでこれも対比となっていて、
藤野の「もしもの世界(フィクション)」はワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッドをオマージュとしていて、
藤野の境遇(現実)はマンチェスターテロをモチーフとしているのかもしれない。

それから“京アニ放火事件をモチーフにしているのか”
については、あくまで個人的な解釈だが
藤野の空想の通り魔の台詞(フィクション)と新聞の報道(現実)を対比として考えるなら、

最初に公開されたルックバックの
「パクリ」という台詞は藤野の空想であり、フィクションという属性なので、現実に起こった京アニ放火事件をモチーフにしているとは言えないのではないかと思う。

2回目の修正では藤野の空想と新聞の報道(現実)の両方に「パクリ」という言葉があるので
2回目の修正は「京アニ放火事件」(現実)をモチーフとした、と言えるかもしれない。



8ー2「Don't look back in Anger」について

2017年5月22日、マンチェスターで行われたアリアナ・グランデのコンサートの後に爆破テロが起こった。
アリアナ・グランデはショックを受け世界ツアーを中止。
この爆破テロの追悼集会でアンセムとしてOasisの「Don't look back in Anger」が歌われたという。

その後、アリアナ・グランデは「憎しみには勝たせない」(we won't let hate win)とインスタグラムにメッセージを発表したそうだ。
リンク↓

アリアナ・グランデのメッセージから抜粋↓①

私たちが今できるたったひとつのことは、この事件が私たちに与える影響、これからどう生きていくかを私たちが選ぶことです。
(中略)
みんなが今週お互いに対して示してくれた、共感、思いやり、愛、強さ、団結は、月曜に起きた事件のような凶悪なものを引き起こす許しがたい意図とは正反対のものです。
あなたたちは、あの事件の対極です。
みなさんが感じたであろう痛みと恐怖、あなたもきっと体験したであろうトラウマをとても残念に思っています。私たちはなぜこのような事件が起きるのかを理解することはできないでしょう。なぜなら、私たちの本質ではないからです。だから私たちはひるんではいけないのです。
私たちは恐怖によって止めさせられたり、恐怖に操作されたりしません。
私たちはこの事件で分裂させられることはありません。
憎しみを勝たせることもありません。

アリアナ・グランデのメッセージから抜粋↓②

音楽は地球上にいる全員が共有しあえるものです。
音楽は私たちを癒し、団結させ、幸せにしてくれるものです。
だからこそ私たちのために続けていくものなのです。
今回の悲劇で私たちが失った命、彼らの最愛の人達、ファン、そして衝撃を受けた人達に、これからも敬意を持ち続けます。
彼らは私の心の中にこれからもずっと残り、私は彼らを毎日想います。これからの人生、彼らのことを精一杯想い続けます。

テロ事件に対して自分の気持ちを発表することはものすごく難しいことだ。批判だってされるだろう。
ぼくは読んでいて涙が出てきてしまった。

抜粋①は「7ー5背中を見て」の解釈で参考にさせていただいた。
あと抜粋②のこの文章の「音楽」を「漫画」に変えると、まるで藤野の心の内のようではないだろうか。

ルックバックの終盤、藤野が立ち上がり、再び漫画を描き始めるシーンには藤野のモノローグが一切なく読者の想像に委ねられるわけだが、
作中、「Don't look back in Anger」という曲名が潜められていることによってマンチェスターテロからアリアナ・グランデのこの決意表明につながり、藤野の語られなかった心の内を補足するというこのギミックである。すご。
(もちろんこの解釈が正解というわけでなくひとつの解釈として。)
作者が意図したかどうかわからないが、この記事を見つけたときはびっくりしてしまった。



8ー3 感想

あくまで個人的な解釈と感想として書かせていただいた。
今回書いたことは数多ある解釈のほんの一部でしかないと思う。本当に凄い作品なので今後もずっと読み込んでいく。

はじめて『ルックバック』を読んだとき、背景担当のアシスタントさんにカメラアングルが向いていると思っていたけど、“フィクションとは何か、パクリとは何か”という問いは「作者が物語を作る背景」をもテーマにしていたのかと思うと、この密度は本当に短編か?と疑う。
すごいを通り越して恐怖を感じています。

藤野を見ていると創作は“自分の意思”でないと作れないのだとするととても孤独な作業だと思った。そのなかで京本の存在はもの凄く大きかっただろうと思う。
読者としても京本の愛と生き方がぼくの腐りきった心を浄化していくようだった、本当に。


勝手にフィクションを作り上げないこと、“背景”を見ること。


間違いなく時代を抉る作品だった。








ルックバック!!!



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