見出し画像

千葉県君津市の「西国三十三所」

2023/08/10追記

結論からいうとこれは「写霊場」といいます。秩父や西国、坂東の観音霊場と同じご利益がある石仏を一ヶ所に集め、その場で拝めば巡礼と同等のご利益が得られるというものです。四国八十八ヶ所の写霊場も見られます。他県は知りませんが、少なくとも千葉県には各地に存在します。

今回紹介する霊場が特異なのは、立地はもちろんのこと、西国三十三所に対応するお寺が近隣にあるにもかかわらず更にこれらを一箇所にまとめてある点です。通常はお寺の裏山に一本道を設えて、道中に石仏を配置するのが一般的です。

ここの場合、近隣のお寺を写霊場とした後、それぞれのお寺が石仏を一ヶ所に奉納したのではないかと想像しています。いずれにしても興味深いケースです。

まえがき

民俗学っぽいですが学術的なアレではないです。似たような事例を調べてもまったく出てこなかったので、できるだけ考察もします。ツッコミがあったらぜひ。

はじめに

西国三十三所とは、文字通り西国の巡礼地です。
観音菩薩を祀った33ヶ所の霊場をお参りするといいことがあるということで昔から流行していました。近畿地方に分布しています。

一方、今回取り上げるのは千葉県の君津市です。しかも亀岩の岩窟にほど近い陸の孤島、亀山湖周辺です。
なぜこんなところで「西国三十三所」という文字が見つかるのでしょうか。

君津市 謎の石仏群

まずはこれを見てください。これは国道の脇に突如現れる穴です
車ではまず見過ごすような、両手を広げたくらいの狭い穴の中に石仏が30体近くいます(数え忘れました)。

画像1

入口にあった馬頭観音以外はすべて天保4〜10年の作品でした。だいたい200年前です。

石仏は見るからに軟らかそうな岩質でできています。にもかかわらず保存状態が良好なのは、後世に穴を掘って移動したのではなく、当初から穴を掘って収められたことを物語っています。

画像2

台座をよく見ると、中央に「西国廿三番」と書いてあることがわかります。

他のを見ても、台座がある石仏には必ず年号と「西国○○番」という文字が彫ってありました。

この空間は、そしてこの石仏たちは一体なんなのでしょうか。その正体を探るヒントが、近隣の寺院やお堂に残されていました。

※当初は「すごいの見つけたぞ」とテンション上がってそれで終わりました。これを書きながら、石仏全部撮っておけばよかったと後悔しています。

君津市の霊場

君津市藤林 長命寺

GoogleMapに載っていなかったので追加しました。追加したてだと検索しても出てこないんですよね。
それは置いといて、上総亀山駅近くの小さなお堂です。大きな絵馬に「西国移丗番」とあります。

画像3

君津市釜生 泉龍寺

こちらは亀山神社近くにある寺院です。亀山神社はヤマトタケルに縁があり、神仏分離以降泉龍寺と分離したということで由緒あるお寺です。
左端の木札には「西国第三十三番美濃國谷汲山華厳寺 移上総蒲生山泉龍寺十一面観音」とあります。

画像4

君津市広岡 外ヶ野朝立十王堂

長命寺もそうでしたが、地元の菩提寺といった感じで代々のお墓以外があるだけの場所です。正直よそ者の私にとっては興味をそそるような要素はなにもありません。「西国第十六番 山城國清水寺移」とあります。

画像5

考察

・番号が西国三十三所に一致している
・「移」の文字

これだけで、なんとなく以下の結論に至ると思います。

富士登山を疑似体験する富士塚のように、西国三十三所巡礼に行けない人のために地元で完結できる巡礼地を用意した。

では、冒頭の石仏群はなんなのでしょうか。考えられるのは、

地元の「西国三十三所」すら巡礼の手間を惜しんで、参拝するだけで疑似巡礼できる場所を用意した。

このへんは根拠がないゆえの想像ですが、君津各地の三十三所ができた後に、各寺院が石仏を作って一箇所に収めたと考えています。

岩谷観音堂

一応この考察の根拠です。中世やぐらの中にすごい数の仏像が彫られている光景は迫力があるということで、隠れた観光名所として知られています。

案内板には「一巡すれば全国の霊場を巡礼したのと同等のご利益があるといわれています」とあります。この石仏群も似たような役目を期待されたと思われます。

おわりに〜他の三十三所との違い

33ヶ所の観音霊場をめぐる巡礼は全国各地にあります。県単位(安房三十四所や新上総国三十三観音霊場)はもちろん、先述した岩谷観音堂も天羽観音霊場(天羽は現富津市)の三十三番札所であるように、細かく見ていけば全国に類例があります。

君津市のこの霊場がそれらと異なるのは、あくまで「西国三十三所」であるという点です。地名から「亀山三十三所」とかでも全然問題ないはずですが、なぜか「西国」です。

西国三十三所と検索しても西国三十三所しか出てきません。どうして君津市のこの霊場がこのように呼ばれているのかは本格的な調査が必要そうです。

不思議な地域史のひとつとして、そのうちなにかわかったらいいなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?