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期待しないこと。

誰かを・何かを愛する時に、その対象に期待をしないことを最近覚えた。
期待というのは条件を付けることとニアリイコールである。

「私がこれだけしてあげたんだから、相手はこれを返してくれるはず」
「私がこれだけ課金したんだから、相手はこういうことをしてくれるはず」
「私がこれだけ大切に思っているんだから、相手も私を大切に思ってくれるはず」

みたいなやつ。

例えば、両親が子供を愛し、お金・時間・手間全てをかけて育てたとする。
こんなに一所懸命育てているんだから、きっと素敵な大人になるだろう、と、両親が期待していたとする。

ところが、その子は20歳を目前にして亡くなってしまったとする。

じゃあ、両親は一体どう思うだろうか?
今までかけたお金・時間・手間は何だったんだろう、なんと無駄だったのだろう、と思うのだろうか?
私たちが一生懸命育てた子が素敵な大人になれずに亡くなってしまった、育てなきゃ良かった、と思うのだろうか?

色恋沙汰や夫婦関係だともっと当てはまるかもしれない。

私がこれだけ毎日お世話してあげてるんだから、感謝してくれるはず。
こんなに大変な思いをしてるんだから、家事を手伝ってくるのが普通なはず。
私が毎日くたくたになるまで働いているのだから、帰ってきたら美味しいご飯とお風呂が用意されていて当たり前なはず。

そんなわけあるかい。

言わば条件であり理由である。
これこれをしてくれてるから、私のことを愛しているんだ。
じゃあ、してくれなくなったらどうなる?
その時点で愛は冷めてしまうのだろうか?

行動だけではない。
あの人の親切なところが好きだ。
優しいところが好きだ。
明るいところが好きだ。
でも、あの人は実のところ親切でも優しくも明るくもありませんでした。
じゃあ、その時点であの人を好きではなくなるのか?

多分それは、愛ではなくて恋なんだろう。
それが悪いわけではない。ただ愛という形ではないだけだ。

人を愛するということには条件が必要なのだろうか?
それって…ある種、ギャンブルにはまるようなものではないのか?

毎日せっせとお水をやって、でも芽が出なかったら?
一生懸命課金して、当たらなかったら?
そう考えると、期待をすることは依存をすることに繋がってしまわないか?

期待・条件・理由・依存
全て似たような意味であるように思う。

だけど…
期待をせず・条件を付けず・理由もなく・依存せずに、対象を愛する、というのは、至難の業だ。
私個人はだけど、しかしその至難の業をできるだけ目指していきたいと思うのだ。
いろんな意見があっていい。でも私はこうだ。
そうするとかなりメンタルが安定するし。

のんびりやっていこう。時間をかけてやっていこう。

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