VTuber 批評誌【VXY】を読んで
今年5月の文学フリマで購入後積まれていたのを、やっと読みました。
予想以上に内容が深く示唆に富んでいました。
私はYouTubeすら見ないのでVTuberを見たことはなく(知っているのはキズナアイくらい)、多分今後も見ることはないでしょう。
それで何故この本を手にとったかと言えば、一つには娘がVTuber好きで、時々VTuberやその界隈のイラストを描く仕事をしているので、娘の好きなものを知りたいという親心です。
ちなみに娘に「こんな本買ったんだけど読む?」とLINEしたところ「気が向いたら読むかもしれない」というので「読み終わったら送るね」というと「そこまで気になるわけじゃないから、送らなくていいよ。」という塩反応でした。そんなものです。
もう一つの理由は、VTuberという存在への純粋な興味です。見たことも見るつもりもないですが、今この社会に現実に存在してその周辺に集まる人々がいるVTuberというものについて知りたいと思いました。
どの記事も面白かったのですが、特に印象的だった部分を記しておきます。
人間の根源的な要求
「バーチャル美少女ねむインタビュー
VRは人類進化のワクチンである」より
バーチャル美少女ねむさんはメタバース文化エバンジェリストという肩書きでメタバース世界の先駆者、案内人として普及、研究活動をされています。
コロナ禍で人の行動が制限された時、制限なくどこへでも瞬間移動できるVRchatの世界で何が起こったか。それが実は「みんなで集まって飲み会をするだけ」だったというのです。
人間の三大欲として食欲、性欲、睡眠欲などといいますが、これらは生物として生命維持と種の存続のために必要なことであって欲とは違うと思います。
欲とは、生きていくのに必要ではないけれど欲しい、と思うことではないでしょうか。
その人間の根源的な要求が、可愛くなりたい、飲み会がしたい、触れ合いたいということであると。
今これを読んで「いや、別に」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、現状の自分ではなく、すべての願いが叶った理想の自分になれるメタバースの世界であったなら、心の奥底に眠っていたこれらの欲が起き出してくるかもしれません。
可愛くなりたい、とは日本のメタバースに於いて特徴的な「バ美肉」現象に表れています。
「バ美肉」とは男性が美少女のアバターを着て活動することです。
ただこの「バ美肉」現象は海外ではあまり一般的ではないそうです。
「バーチャル世界での姿は、もっと自由でいいのではないか」という思想は、海外では抵抗があるかもしれないということです。
宗教上の理由や民族的なことなど、海外のメタバース事情は日本とはまた違うのだなということを知りました。
AITuberは永遠か
「阿部由延(saldra)
AITuber は VTuberを駆逐しうるか」より
Vtuberはバーチャルな存在だけれど、魂(中身の人間部分)だけはバーチャルにならないがゆえ、やる気がなくなったら終わり、などの限界があるわけです。
そこでAITuberなら永遠か、というのがこの論考です。
ここで面白いと思ったのは、AITuberとして例えば一人の女の子をプロデュースしていく時、色々な性格づけをしていくわけですが、その結果、その女の子の性格として配信をやり続けるモチベーションがあるか?という問題に突き当たるというのです。
「人間と違って人間故のトラブルがないし、限界もない」と思われたAITuberも、人間に近づければ当然人間としての問題が出てくるというのがなるほどと思いました。
突如詩について語る
「ペシミ
おりコウにとって「ポエム」とは何か」より
「にじさんじ」に所属する卯月コウと魔界ノりりむという二人の詩人についての話。
私は「にじさんじ」も「卯月コウ」も「魔界ノりりむ」も知らないのですが、気になったところをピックアップします。
魔界ノりりむは喋る言葉が全部ポエムであると、卓越した言語センスを賞賛されているのだそうです。
例えば「いつから朝でどこから友達なの?」「おはぽえ……あれ?いっしょに寝てたはずの朝がいない……」など。それを周りがポエムと呼ぶことに対しての卯月コウの上の発言だそうです。
「詩」と「詩情」は違うと、私もどこかで目にして、そのことはずっと頭の片隅にあります。詩は作るもの、詩情はそこにあるもの、そしてそれを捉えられる感性のこと、魔界ノりりむは単に言葉がポエムということではなく、その感性から紡がれる言葉がポエティックということなのでしょう。
否定性に囚われない天然だからこそ、魔界ノりりむの言葉は卯月コウにとって光となったんですね。
以上、見たこともないVTuberについて語らせていただきました。
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