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一年ぶりだけど、こんな感じだった気がする

連休の真ん中の1日なのに天気が悪く、低気圧に弱いため外出もできずに自宅のリビングにお尻が固くなりそうな時間座り続けている。

かかりつけの精神科医やTwitter(テレビやYouTubeのおかげでXという呼び方に慣れつつあるのが恐ろしい)の情報を見る限り、夏が終わって気温が下がると体調を崩す人が多いらしいけれど、むしろわたしはその逆で、ここ数年気温が下がると急激に体調が上向き始めるのだ。

最後にこのnoteを更新したのは一年ほど前らしく(一応、ひとの記事を読んだりはしていた)そういえば確かにそれくらいは経っているかな、という感覚がある。

決して文章を書くのが嫌になったとかではなく、単純にこの一年間「書けない」状況にいたのがその原因だった。

元々人生の半分以上を病気と一緒に過ごしてはいたのだけど、去年のちょうど今頃、当時の勤務先でストレスフルな出来事が続いたり、私生活でも大きな変化があったりして、人生で一番か二番レベルで体調を崩した。元々環境の変化に弱い性質で、子どもの頃は学年が上がる度に学校に行きたくないとこっそり泣いていたほどである(バレてたかも)。

精神的に大きく落ち込むだけならまだしも、身体の調子も悪くなり仕事や私生活にかなり支障をきたしていたので、主治医の指示で数ヶ月仕事を休んだのち、今年の春先に満を持して会社を辞めた。

会社を辞めたからといってすぐに体調が良くなるわけもなく、一日中寝室の天井を見つめていたり、お手洗いに行きたいのに体が動かせなくて膀胱炎になったり、呼吸が上手くできず声を出すことが困難になったりする日々がしばらく続いた。

少しだけ良くなって、外出は無理でも少なくとも朝ベッドから起きることができるようになった矢先に地獄のような夏が来た。わたしは幼い頃からとにかく暑さに弱い。汗っかきだから活動している時間中汗が背中や太ももや首を伝うのを意識せざるを得ず、その不快感と恥ずかしさ、自分の体から上る汗の臭いへのやるせなさで体がガチガチに固まってしまい、いつもどうやって歩いていたか、どうやって息をしていたかを忘れてしまう。

新しいエアコンやさらっとした麻のラグやひんやりした肌触りの寝具と、あとアイスクリームの力を借りてなんとかここまで生き延びた。正直、今年の夏は「死にたい」と思う余裕もなく、ただ身体を暑さから守ることに必死だった。いつもみたいにウジウジ理屈っぽく考えることすら許さずに本能だけで(また、そのおかげで)生きていた気がする。

数日前、ようやく夏が終わったような空気を吸って、ああ、なんとか生き延びたとしみじみ思った。

そのおかげで一年前に比べると少し、いや、それなりに体調が回復してきた。まだ外出するのは難しい日も多いし、急に過去に連れ戻された感覚に襲われてその場から動けなくなってしまう時もある。ただ、天井を見上げる以外の活動ができるようになってきた。

そうすると、一年前ぐったりしていた自分のことをどこか他人のように観察することが増えてきた。

あれからは本当に、どこが痛むのかわからないほど絶えず全身が痛くて、理由もわからないまま泣いてばかりいた。
おそらく泣いていた理由はいくつも存在するのだけど、ひとつ確実なのは、今まで普通にできていたことができなくなることが非常に苦しかったということだ。

その「普通にできていたこと」はあまりに多すぎて、たとえば朝ベッドから出ること、美味しく食事を食べること、顔を洗うこと、呼吸をすること、人と話すこと、眠ること、それら以外にも様々なものがあったせいで、圧倒されたわたしはそのひとつひとつが見えなくなっていたのだけど、その中のひとつに「書くこと」があったのだと思う。

会社員時代は文章を書く仕事をしていて、それは大学生の頃に文章制作を勉強していた自分としてはとても自然な仕事だった。元々読書好きだったこともあって、長い文章を読んだり書いたりすることも苦痛ではなかったし、書くことに関しては適性があると自分でも思っていた(正確には、それ以外のすべてに適性がないとも思っていた)。

ただそれは机に向かってキーボードを打ち続けられる基礎的な体力があってこそ可能なことで、その体力を奪われてしまうと机に向かうことすら困難になる。

昔から完璧主義で自罰的なところがある自分にとって、何より許せないのは「会社員として働くことを続けられない自分」だと思っていた。でも実はそうではなくて、というかそれもあるけれど、それだけではなくて、自分が当たり前に持っていた「書く」力がなくなったことだった。許せなかったし、理不尽だと思った。悔しいとも思った。

いまだに長い文章(長編小説とか専門的な書籍とか)を読むのは難しいし、今これを書けているのも、たまたま特に体調が良い日だからだと思う。書けることは今のわたしにとっては当たり前でもなんでもない。

だけど、家族がこの前ワイヤレスキーボードをプレゼントしてくれた。薄型で軽くて、iPadと両方持ち運んでもそこまで負担を感じない。これは自分にとっての杖だと思った。まだ自力で歩くことは到底できないけど、助けになってくれる道具。これも、精神科でもらう薬も杖と同じだ。補助輪にも似てるかもしれない。

とにかく、書くこと。まだ体力は全然ないから、使える力の範囲内でいい。毎日やらなくてもいいし、できる日は何日か連続してもいい。せっかく書くのだからこのnoteというツールを使っているけど、他の人たちが読んでいることはなるべく意識しないようにする。他の誰かのためじゃなく、自分のためのリハビリだから、もしその結果生産したものが誰かに受け入れてもらえたらそれはラッキーということにする。一旦、一歩でも半歩でも、自宅のリビングから出られるようになろう。

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