見出し画像

消えたあの子のことエモいって言うな

 夏が嫌いだ。生まれつき日光に過敏な体質なので、一定時間以上外に出ていると頭痛や吐き気がしたり夜に熱が出たりする。汗のせいでメイクがドロドロになるし、頭や身体の汗のにおいが気になるし、苦手な虫が多いし。

 でもずっと前は、夏はキラキラしていたはずだった。何事も終わりに近づけば近づくほど美しいとわかるもので、いじめられていた小学5年生のときは、明日からまた始まる生活をベッドの中で怖がっていた。中学2年生のときはなんとかして課題のレポート(課題の全体量が多かったわけではないが秋にある「研修旅行」に向けてのレポートが大変だった)を終え、高校3年生のときは「夏休み」という受験に向けてのひとつの山場が終わったことに安堵と焦りを感じていて(高校3年の6月に吹奏楽部を引退してからのわたしは勉強のモチベーションが恐ろしく高かった)、大学1年生の頃は「9月もまだ夏休みである」ということに浮かれて夜更かしをしていた。

 そして22歳の今、わたしはニュースの流れるリビングで眠気をなんとなく宥めながらこれを書いている。

 終わりが近づくといっそう美しく見えるのはあらゆることにおいてそうだと思う。夏もそうだし、学生生活とか、恋愛とか、ディズニーランドとか。だけど「終わり」とはなにかと考えた時、はっきり決まっているものと自分で決めることのできるものがあることに気付くのだ。真夏のピークが去ったと天気予報士が言っても「それでもいまだに街は 落ち着かないような気がしている」ように、夏の終わりとはそれこそなんとなくやってきて、誰もそれを目撃しないものであったはずだ。

 そういうことを考えると、夏の終わりは「エモい」のかもしれない。夏休み後半の線香花火とか、夜が徐々に涼しくなっていく時期とか。
 でも「エモい」で終わりにするのは恥ずかしいと思う。それはせめて中学生までにしましょうよ、という思いだ。

 「エモい」って結局何なんだろう。最近性的にだらしないことを「エモい」と言うらしいがわたしには正直それがよくわからず(というかこの風潮はクリープハイプのせいでは、という話にこの前友人となった。夏のせいにすればいいと思う)、それよりは友人の家で深夜まで飲んで雑魚寝をして朝帰るときの空気とか、部活帰りに自転車を漕ぎながら嗅いだ近所の家の夕食の匂いとか、そういうのに「エモ」を感じる。

 「エモ」が何かはわからないけど、いつの間にか終わっていくもの、あるいは自分で終わりを決められるものの終わりは確かに「エモい」のかもしれない。

 「だいご」は小学5年生のとき、わたしが一番成績が上のクラスに移ったとき、通路を挟んで隣の席に座っていた。先生の冗談に笑う時、歯列矯正のワイヤーが光っていたのを覚えている。

 わたしとだいごはすぐに仲良くなった。わたし、だいごの2人にNという友人を加えた3人で行動することが多くなった。

 だいごはたぶん、慢性的に寂しい子だった。だいごは当時ライトノベルにハマっていた。だいごにはわたしたちの知らない友人がいたらしく、起こりえないようなファンタジーな出来事をわたしとNによく話していた。

 受験を終えた。わたしは第一志望の東京都内の女子校に落ちた。合格発表を見たその足で塾に向かうと、目を真っ赤にしただいごがいた。わたしたちは一緒にひとしきり泣いた後、かわいがってくれていた社会の先生がおごってくれたハーゲンダッツを食べた。

 だいごはその学校に繰り上がった。「実は繰り上がってあそこに行くことになった…ごめん……」わたしはそのメールには返せず、数日たってから「カラオケ行こう」とメールをした(当時の中学生の遊びなんてカラオケしかなかった)。

 わたしたちはNをはじめ、他の友人も混ぜてよく遊んだ。だいごの学校の学園祭にも遊びに行った。だいごは文芸部に入っていて、部誌を書いたりなにかと忙しそうにしており、遊びに誘っても部活を理由に断られることがよくあった。

 だいごの学校の学園祭に行くとき、その学校に通っている他の友人にも行くよ、と声をかけた。そのうちの1人がKちゃんだった。Kちゃんからのメールで、わたしは初めてKちゃんとだいごが絶交(懐かしい響きだ)していたことを知った。なんでもだいごがふざけてKちゃんのカバンを叩いたときにKちゃんのお弁当箱が壊れてしまい、そこからケンカになったそうだった。

 だいごはふざけてよく人をパシッと叩いた。それがいつも少し痛かった。Kちゃんはそれがどうしても嫌だと言っていた。

 あの頃、わたしたち全員が自分だけが周りのみんなより「足りない」と思っていた。自分だけが確固たる夢を持てず、自分だけが本当の恋愛を知らず、自分だけが毎日に刺激がない。
 過去にいじめられたり、色々あっただけに(あと思えばこの頃から心の病気があったのだと思う)わたしは愛されることに疑いを持つことになった。おそらくだいごもそうだったと思う。

 もしかすると、だいごは今もなにかが足りないのかもしれない。慢性的な寂しさがそれに拍車をかけて、だいごはまだ足りてないものに飢え続けているのかもしれない。

 Nはわたしの家から徒歩5分の所に住んでいる。わたしたちは地元のスターバックスとかでまあまあ頻繁に会っている。わたしは社会人1年目に、Nは医学部の5年生になった。

 フラペチーノに追加したわらびもちが吸えない、とNが言うので、ストローもうちょい上にしたらいいじゃんと言ったらなんかわらびもち全部吸ったっぽい、と返ってきた。

 「だいご、何してるかな」
 「わかんない」
 「Twitterにもいないよね」
 「なんかさ、万が一死んじゃったって言われても、そんなにびっくりしないかも」
 「うん。わかる」
 「悲しいけどね」
 「それはそう」

 わたしたちはいつもNのマンションの前で別れる。Nに大学から外出禁止令が出たので、これ以降わたしとNは会っていない。

 だいご、どこ行っちゃったの。

 Nのマンションの前から数分、自転車を漕ぎながら思う。今年はまだまだ暑いみたいだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?