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だからわたしは料理しない

中学3年のときのバレンタインデー、同じクラスの女の子に自作の「生チョコトリュフ風」を渡したら、その子がそれを食べて顔をしかめた。というか、その子は顔をそむけてくれていたんだけど見てしまった。

今年のバレンタインデーは両親と恋人に銀座三越で買ったチョコをプレゼントした。全部合わせるとそれなりのお値段はしたけど、お金で安心とおいしさを買ったのだと思えば安いものだった。

社会人一年目、持病の都合により当面は実家で両親と3人暮らし。父は会社の偉い人、母は時々福祉関係の仕事で基本は主婦業、わたしはウェブメディアのライター、ちなみに在宅勤務。

こういう環境に甘えて、わたしはあまり家事をしない(ごめんなさい)。甘えられるうちに甘えればいいと思ってるし、生活にかかるお金はきちんと払っているし、別にいいと思っているけど。

ただ学生の間はだらだらして許されていても、社会人になってそれはさすがに申し訳ない、というかなんかダメな気がして、たまに家事をするようになった。

洗い物は比較的好きだ。別に水仕事は嫌いじゃないし、泡がついた食器をざぶざぶすすいでいると頭の中がリセットされる気がする。同じ理由でお風呂を洗うのも嫌いじゃない。基本的に浴槽に浸かるのはわたしだけだし。洗濯物を干したり取り込んだりするのも、マンションだからそこまで人に見られることがないんで別に嫌じゃない。ゴミ出しも普通にやるし、自分の部屋に掃除機をかけるついでに他の部屋にもかけたりする。

ただ料理だけは好きになれない。
先日、大学で入っていたサークルが同じだったお兄さんたち(サークル時代は彼らはわたしの先輩だったが今となっては友だちである)と飲み会をして、料理が嫌いだなんだと言っていたら1人のお兄さんに言われた。

「嫌いとかめんどくさいとかじゃなくて、料理しないと生きていけないからするんだよ」

自炊しないと健康に悪いし経済的にも大変だし。そう言う彼にわたしは返す。

「わたしはひとり暮らしなら毎食カロリーメイトでいいし、夜ならおなか空いたら寝ちゃえばいいじゃん」

お兄さんは「あ~…」と言ってから黙ってしまった。それが共感や納得によるものではなく、呆れによるものだということははっきりわかっていた。

わたしにとって「食」はイベントなのだ。おいしいものを食べるのはもちろん好きだが、それ以上においしいものを誰かと囲むことに意味があると思っている。

自分ひとりでの食事はエサだと思っている。それこそ移動中にカロリーメイトを食べればいいし、わざわざお店に入るのが面倒くさい。家にいるときならおなかが空いたら寝てしまえばいい。なにかを準備するのも食べるのも面倒くさい。

そういうわけだから、なにもないところから「お楽しみ」たる料理を生み出そうという気持ちが湧かないのだ。さすがにカレーとかスクランブルエッグ程度なら作れるけどそれはなんの「お楽しみ」にもならないし、誰かとそれを食べるくらいならコンビニに行ってカップラーメンとかコンビニスイーツを食べたほうがいい。カップラーメンなんてまさに「非日常のお楽しみ」ではないか。

「お楽しみ」はなにか特別なものであってしかるべきだし、わたしにはそれを生み出せるような技量がない。単に料理が下手というだけではなく、人を楽しませることがあまり得意じゃないのだ。サプライズとかこちらが居心地悪くなってしまうし、相手の顔色を気にしすぎて早く帰りたい!と思ってしまう。

でも料理の上手な誰かが料理をしているところを見るのは好きだ。SNSに流れてくるお料理動画を見るのは楽しい。何の変哲もない野菜や果物、小麦粉や牛乳がまったく別の形を持ったものにトランスフォームしていく様子は魔法みたいでおもしろい。

きのうの夕食は「ポトフとタラのハンガリー風」だった。作ったのはわたしの母。彼女はものすごく料理が上手だ。世界でもっともおいしい食べ物は、おいしいものがたくさんあって迷うけど、迷った末に「ママの作った料理」と答えると思う。

なすとピーマンとひき肉の煮物、お豆腐と豆とひじき入りのハンバーグ、ブラジル風のチーズのパン、野菜たっぷりのキーマカレー、ローストビーフ、かぼちゃのお味噌汁、白鳥の形のシュークリーム、アップルパイ。彼女が作るおいしいものは、今ざっと思い出しただけでもこれだけある。

この前も彼女が夕ご飯を作るのを眺めていた。野菜があっという間に細かく切られ、何もなかった場所からなんだかわからないけどいい香りがしてくる。それがおもしろくて見ていると、料理がしたいのだと勘違いされて、気が付くと野菜の皮をむかされていたりする。

わたしは彼女と違って「お楽しみ」を生み出せる人間ではない。というか、わたしは料理をしてはいけない人間だ、となぜかずっと思い込んでいた。

「ねえなにしてんの!?殺そうとしたでしょ!」
人殺し、とわたしはキッチンで怒鳴られていた。その頃のわたしは確か高校生。怒鳴っているのは7年くらい前の母だった。

その頃、わたしは「お菓子作りが趣味の女の子」になりたかった。なんだかいい香りがして、家庭的で。そんな女の子に憧れていたから、母のそばで料理を手伝っていればなれると思っていたのだ。

わたしは昔から作業を同時並行でやったり、複数のことに気をつけることがすごく苦手だった。だから確かその時は「切った野菜だかお肉だかをお皿に移す」作業と「お皿を洗剤で洗う」作業が混乱してしまい、洗剤のついた手で食材に触ってしまったのだと思う。

母は産地とかメーカーとか「食の安全」にものすごくこだわる人だった。だから当然それにものすごく反応した。わたしは料理をしようとすると人を殺してしまうかもしれないんだなあ、とそのとき学んだのだった。

作業の並行とか複数のことに気を配ることが苦手なのは、それからしばらく経った昨年、発達障害によるものだと診断が下りた。そのときは今までの人生の伏線を回収したような気がした。

だけどその「洗剤事件」は特にトラウマとかじゃなくて、もともと「お楽しみ」が苦手なわたしは、その中でも「料理」というお楽しみが特に苦手だとわかったということにすぎなかった。

料理ができる人はすごいなあとは思う。人間力が高いなあとか。だけどそれはわたしが目指すべきフィールドではないと思うのだ。

別に「女の子が料理嫌いでもいいじゃない」ということを言いたいわけではない(その通りだと思うけど)。ただ、人には「どうあがいても得意になれない分野」とか「別に得意にならなくても良い分野」があって、それがわたしにとっては料理だったという話だ。

まだ持病の治療中なのでわたしはしばらくはこの家にいるだろう。でも、持病が良くなったときとか、結婚したときとか、いつかこの家を出るかもしれない。そうしたらお料理をしてくれる人を雇おう。母親は時給5000円(プラス交通費)で雇われてくれるらしい。

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