いつだって世界には愛されている
「自分は愛されていない」とあまりに思い込みすぎていると、無意識にそれを裏付ける証拠を集めようとしてしまう。
すると、目の前で起きた出来事に対しても、それをフラットに受け入れられない。
「自分は愛されていないんだからこの出来事は自分を責めるために起きたはず」
という前提のもとで、事実を解釈しようとしてしまうことになる。
何でもないただの偶然や、むしろ相手の厚意であったとしても、
「自分は愛されていないんだからこれはネガティブな出来事のはずだ」
というように、無意識に思い込んでしまうのね。
するともう、スパイラルなわけです。
自分は愛されていないという前提の意識
↓
起きた出来事をネガティブに解釈してしまう
↓
「こんなネガティブなことが起きるということはやっぱり自分は愛されていない」
↓
それを証拠としてますます自分は愛されていないと思い込む
↓
どんどんネガティブな解釈をすることが増えていく
↓
起きた出来事がどんどんネガティブに感じられていく
↓
ネガティブな気持ちに支配されるからどんどん前提の意識は強まる
↓
何が起きてもネガティブにしか感じられない
↓
「愛されていない」から脱却できない
↓
「愛されていない」という世界で生き続ける
これね、難しいよね、ここからの脱出は。
基本的にひとりじゃ無理かもしれない。
誰かに何かを言われた時、「責められている」と思い込んでしまいがちな人、疑心暗鬼に陥りやすい人は、このループにハマりこんでしまう可能性が高いです。
愛されているか、愛されていないかなんて、そんなのね、全部、主観なの。
というか、まぁ勿論、「愛されている」の定義をどこに置くかによっても変わってくるけど・・・・
基本的に、全部、生まれながらにして、存在自体で「愛されている」のよ。
祝福されてるの。どんな境遇にあっても。
「愛されている」と「ポジティブな感情」は、別物なのです。
「愛されているならこういう扱いを受けるはず」
「こういうことを言われるようなら愛されているとは言えない」
って、それを勝手にジャッジしてるのは誰よりも自分自身で、自分が自分を「愛されない人間だ」と思い込んでるだけ。
そりゃ、「愛されない」って思い込みを強める現実が、どんどん降りかかってくるよ。
そういう人は本当は、「愛されない」を証明したくてしょうがないんだから。
「愛されている」からこそ、「愛されない」を証明したいその人の心に、世界は応えてくれちゃうので。
それだったらもう、とことんそういう世界にいたらいいよ。
別に突き放して言ってるわけじゃないよ。
今は、周りがどれだけ何と言おうと、自分がそう思っちゃってるんだったら、仕方ないものね。
そう思っていたいなら、とことん、好きなだけそう思っていたらいい。
世界はどんどん、それに応えてくれるから。
そのフェーズを自分自身でやりきれるところまで、ずっとそこに浸かっていたらいいよ。
もしかしたらそれは、その人自身の「禊」なのかもしれない。
苦しみたいと無意識に願う その心に、世界は呼応してくれる。
それが何よりの「愛」じゃないですかね。
「ほらやっぱり」って思っちゃったら、もうそれ、自分で臨んだ結果通りになったってことなんだから、「願いが叶っている」っていうこと。
「願いが叶っている」っていうことは、やっぱり「愛されている」ってことなんじゃないかと思うよ。
やりきってやりきって、愛されていないことを証明するための証拠集めに飽きたら、
「あー全部ひっくるめて最初から愛されていたんだな」
というところに、戻って来られるから。
そしたら、その瞬間に、しんどいこと全部、消えるから。
テレビのチャンネルが変わるかのように、世界の見え方が変わる。
リンクをクリックして別ページに飛ぶかのように、視界が変わる。
URLが1文字違うだけで全然違うページにいっちゃったりするでしょ。
それくらいのものなんだから。
今はまだ、その「愛されていない」ページを見ていたいんだろうから。
ちなみに、「証拠集め」に本当に飽きてきたら・・・・
目の前で起きた出来事や現実に対して、
「これが自分への世界の愛情表現だとしたら」
って考えられるようにするといいよ。
「バカ!あんたなんか好きでも何でもないんだからね!」
ってツンデレなセリフを吐く美少女のように、世界がツンデレしてくれてるんだよ、一見どんなに苦しく感じる出来事でも。
見方を変えられるかどうかは、自分の主観次第。
でも、愛されているかどうかは、どういう見方をするか次第。
どんな境遇であろうとも、それ、愛されている。
というのは、「現実」。
だと、僕は思っております。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?