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『映画:フィッシュマンズ』と、どうしても解き明かせない音楽の謎

なぜ172分なのか

バンドの歴史をどう語り終えればいいのか、作り手が困惑しているような映画でした。1987年に結成された日本の音楽グループ、フィッシュマンズのドキュメンタリー作品『映画:フィッシュマンズ』は、ほぼ3時間(172分)という長尺で、バンドの歴史を追ったフィルムです。現メンバー、元メンバーや関係者のインタビューを中心に、レコーディング時の映像、テレビ出演の様子、ライブでの演奏シーンなど、熱心なファンでも見たことのないフィッシュマンズの姿が数多く収められていますが、鑑賞前に私が気になったのは上映時間の長さでした。音楽ドキュメンタリーで3時間は長いのではないか。実際に見終えてみて、この尺になった必然性はよく理解できたのですが、同時に、映画としてどのように着地すればいいのか、172分の時間を使っても「これでフィッシュマンズというバンドを語り終えたことになるのか?」と苦悩する作り手の心情が伝わってくるようで、それこそがこの作品の大きな魅力だと感じました。

フィッシュマンズには、どう考えても理解がむずかしい、不思議な要素がふたつあります。ひとつめは、まだ20代だった彼らが、なぜ『空中キャンプ』(1996)のような途方もないアルバムを作ることができたのか。ふたつめは、どうして佐藤は創作の絶頂(1999)にあって、この世を去ってしまったのか。このふたつは永遠に解けない謎で、フィッシュマンズを好きな人たちはみな揃って「どうしてだろうねえ」と首をひねるしかありません。いくら考えても答えが出ない問いなのです。まずはアルバム『空中キャンプ』についてですが、この作品は「傑作」「名作」といった形容詞が陳腐に感じるほどの超絶的な領域に達したアルバムでした。私は『空中キャンプ』を、リリースから25年のあいだずっと聴きつづけているのですが、いまだに、1曲目「ずっと前」のイントロのギターが鳴った瞬間、騒々しい社会からいっさい切断されたような独特の感覚に襲われます。彼らの音楽によって、まったくの別世界に放り込まれた気持ちになるのです。

『空中キャンプ』という奇跡

なにか特別な創作上の異変が起こらなければ、『空中キャンプ』のような作品は生まれません。3人のメンバーの波長、佐藤のインスピレーションの爆発、バンド専用のプライベートスタジオができたこと、その他うまく言語化できないようなあれこれが重なった結果、『空中キャンプ』という仰天の奇跡が起こったのです。そのため、聴けば聴くほど「いいアルバムだ」「すばらしい曲だ」といった感想を通り越して、「なぜこのようなアルバムが生まれたのか」「どうすればこのような高みへ到達できるのか」という根源的な疑問がわいてきます。2021年に聴いても、同作のサウンドや音響設計が古びる気配は一向になく、だからこそ映画館に若い人びとが詰めかけるのですが、なぜフィッシュマンズがこうした奇跡を起こせたのかはいくら考えてもわかりません。『映画:フィッシュマンズ』はそれぞれのアルバムのレコーディングの様子を観察しながら、音楽的なマジックのからくりを探り当てようとするのですが、その理由は当のメンバーにもわからないままです。がむしゃらにレコーディングした結果、『空中キャンプ』は突如として生まれてしまった。そのきっかけは誰にも突き止められないままです。

佐藤の死もまた、どうとらえればいいのかわからない突然のできごとでした。周囲は動揺するばかりで、あまりにも急で現実感がなく、ただ唖然とするほかありません。佐藤を見送る音楽葬に集まったメンバー、元メンバーが、いまだ信じられないといった様子で懸命に演奏する姿が印象的です。彼の死については、エンディングで多くの時間を割いて語られるのですが、いくら彼の死について語っても腑に落ちることがありません。稀有な才能を持つソングライターが33歳の若さで亡くなってしまったことは、いくら考えても納得のいく答えなど出るはずもないできごとで、どれだけたくさんの関係者が語ったところで、佐藤の死に対する回答は出てこないのです。だからこそ『映画:フィッシュマンズ』のエンディングは、「ここで終わっていいのか」という逡巡に満ちています。映画を終わらせるタイミングを失ってしまったかのように、関係者の言葉が連なっていくエンディングは、確かにやや冗長ではあるのですが、同時にとても共感できるものです。佐藤の死を映画のなかで取り上げ、その後どのように締めくくればいいのか、作り手は困惑しているように見えます。

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まだ言い残したことがあるのではないか

従って『映画:フィッシュマンズ』の上映時間の長さとは、どれほど考えてもわからないフィッシュマンズというバンドの不思議さそのものだと言えます。どれだけ語っても、「このバンドについて描き切った」という達成感にたどり着かない。まだ言い残したことがあるのではないか、という不全感が生じてしまう。だからこそ、映画は終わり方を見失ってしまうのです。きっと「3時間でも足りない」と作り手は考えていたでしょう。その不全感を、バンドのファンである私はよく理解できます。佐藤は、1曲が35分に渡って演奏される「Long Season」(1996)について、「アルバムが1曲ごとに途切れてしまうのが嫌だった。ずっと続いていく曲を作りたかった」と述べていますが、彼の求めていた終わらない感覚、どこまでも続いていく曲というイメージはまた、『映画:フィッシュマンズ』の長尺にも似ているように思えました。語りきれないなにかについて語ろうとするからこそ、着地点が見えなくなってしまう。どこまでも続けるほかなくなるのです。

関係者のインタビューでは、脱退したギターの小嶋氏がもっとも印象的で、決して饒舌ではないのですが、言い淀む様子も含めて、佐藤伸治というとらえどころのない人物との邂逅を語っていたように思います。もし自分がフィッシュマンズのドキュメンタリーを作るなら、テーマを『空中キャンプ』だけに絞り、なぜあのようなアルバムが生まれたのか、さまざまな人物にインタビューをしていく90分くらいの作品にしてみたいな、などと空想してしまいました。劇場は満員で、若い観客がかなり多く、フィッシュマンズがいまでもこれだけの人びとを惹きつける音楽である続けていることを嬉しく感じました。それにしても、音楽について語ることは本当にむずかしいとあらためて思った『映画:フィッシュマンズ』でした。

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