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『Mr.ノーバディ』と、笑いに満ちたバイオレンス映画

なぜユーモアが必要とされるのか

映画『Mr.ノーバディ』の冒頭は、主人公の中年男性ハッチ・マンセル(ボブ・オデンカーク)の平凡な日々を描写したものですが、彼がいかに起伏のない毎日を送っているかは、まるで冗談のように編集されています。目覚め、ゴミを出し、バス停に立ち、仕事場へ行ってタイムカードを押し、パソコンのエクセルに数値を入力する……といった作業が延々と繰りかえされる単調な毎日。その様子が、やけに素早い編集でめまぐるしく切り替わっていきます。主人公はあきらかに、日々のルーティンに倦んでいますが、その姿がユーモラスに描かれるのが特徴です。映像を見てみましょう。

いっけん地味なサラリーマンにも見えるこの男は何者なのか? ある晩、主人公の家に空き巣が入りますが、彼はふたりの空き巣犯をなだめ、腕につけていた安物の腕時計を渡してその場を去るように伝えます。その後、通報した警察官に対して「犯人に腕時計を渡してその場を去るように伝えたが、抵抗はしなかった」と説明したところ、警官から「賢明な判断だと思うが、自分であればそうはしない」と皮肉を言われてしまいます。これは主演のボブ・オデンカークが実際に経験した空き巣事件が反映されているそうです。つまり警官は「俺なら家族を守るために暴力を行使した」と言いたかったのです。この一件以降、主人公は家族からも「困難に立ち向かわない弱腰」と失望されてしまいます。家庭内でも立場のなくなった主人公はどうするのでしょうか。

現代的なフィルム

この経験から、主人公の内面に眠っていた暴力性が開花します。ここでユニークなのは、主人公が大暴れするほど、ストーリーの語り口はよりコメディタッチに変化していくことです。劇中の暴力と笑いが、共に勢いを増していくのが中盤から後半になります。これは斬新なアイデアだと感じました。大暴れする主人公をどこかで客観的に眺めるようなせりふ、選曲や演出が巧みなのです。例をあげれば、敵を迎え撃つ主人公が、とある工場で待機する場面など実に印象的です。いざ敵が来たというところで、主人公は工場の壁にかけられていた「この作業場では○○日間の無事故記録を継続中」の看板に書かれた「○○日」の部分を手でさっと消してから銃をかまえ、敵との銃撃戦を開始するのです。これから派手に事故を起こすぞといわんばかりの悪趣味なジョークには思わず笑ってしまいました。

本作のように、男同士が、どちらがより男らしいかを賭けて戦う男性性の勝負は、それじたいが古いモチーフになりつつあります。もはや、こうしたテーマを直球で描写できる時代ではなくなっている。私たちはマスキュリニティ(男らしさ)から脱却する道を模索しているのであって、いまさらそれを強化してしまっては意味がないのです。題材が時代に逆行しているのだから、何らか見せ方の工夫が必要になる。だからこそ、全編を笑いで包みながら設定自体を中和させ、客観的な視点を持ち込みつつ、「男性性」をあくまで映画のなかのファンタジーとして閉じ込めておくアイデアが欲しいのです。最後の銃撃戦をたたかう三人組など、存在そのものがあり得ないため、彼らの関係性もまたジョークとして楽しめる。こうしたアイデアがみごとに成功した『Mr.ノーバディ』は、とても現代的なフィルムだと感じました。

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