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なぜエヴァはパチンコになってもすり減らないのか

パチンコになって失われるもの

どうも賭博に興味がわかず、パチンコも未経験のままなのだが、世の中にはパチンコをきっかけに『エヴァンゲリオン』を知った人も多いらしい。膨大な額のロイヤリティ収入が見込まれるというパチンコのライセンスだが、パチンコメーカーに作品の使用許可を出すかどうかは、作者として非常に判断が難しいところではないだろうか。いくら金になるとはいえ、たとえば「CR 村上春樹」などというものが登場したとすれば完全にドッチラケで、今後彼が書く作品をこれまで通り読む気になれない。セルアウト感も出てしまうし、そのような展開を望む読者はいないのである。ひとたびパチンコ台になれば、直子がみっつ揃ったら大当たりの「ノルウェイの森リーチ」などの下世話な演出もされるはずで、作品は容赦なく消費され、心血を注いだ小説はギャンブルのための素材と化す。安易に手を出すと痛い目にあう可能性がある。

しかしどうしてか、エヴァのパチンコは気にならないし、あっても別にいいと思えるのだ。これはなぜだろうか。エヴァはとても前衛的で、私小説的なアニメだし、芸術性が高い。観客はみな作品への愛情が深く、純粋で熱狂的だ。そうした特性からいえば、パチンコ化には拒否反応が出てもおかしくないのだが、なぜか切り分けて考えられるのである。エヴァはパチンコになってもすり減らないし、消費されない作品なのだ。なぜそう感じられるのか、ずっと理由を考えているのだが、納得のいく説明の方法が見つからずにいる。ひとつの解釈として「アニメは制作費がかかるし、人手も要る。人件費も含めて資金の調達は必要だし、パチンコ化は仕方がない。だから気にならないのだ」という見方もあるとは思うのだが、同じアニメでも、「CR 宮崎駿」を想定した途端に、私は確実に失望するだろうと予想できるのだ(なおジブリ作品はパチンコになっていない)。

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「CR 宮崎駿」はアリなのか問題

これは、パチンコの猥雑さと、宮崎駿の持っている潔癖さ、共産党イメージとの衝突が主な原因であるように感じるのだが、なにしろジブリ作品とパチンコはなじみがよくないのである。また、子ども向け作品を博打の素材にできないという現実的な問題もあるはずだが、そうした点を差し引いたとしても、ジブリのパチンコ化で生じる失望感には拭いがたいものがある。私自身はパチンコ店に行かないが、それでも『風の谷のナウシカ』のパチンコ台は存在してほしくないのである。ナウシカは、扱いが悪いとすり減ってしまうタイプの作品なのだ。だからこそ、イメージを適切に管理しなくてはならない(ジブリは細心の注意を払って作品をコントロールしている)。とはいえ、そこで奇妙なのは、庵野秀明も宮崎駿に負けず劣らずで潔癖だし、妥協しない人間である点だ。作品への没頭の度合いや、俗世の人間とは思えないような表現への執着も似ている。しかし「CR エヴァンゲリオン」は別にあっていいと思えるし、失望しない。いったいなぜだ。この差異、エヴァがすり減らない理由がどうしてもわからないのである。

先ほど、「CR 村上春樹」は著者に壊滅的なダメージを与えると指摘した。しかし「CR ドストエフスキー」はまったく何の問題もないし、むしろ好ましいのである。それはドストエフスキー本人が、ルーレットで身を持ち崩した重度のギャンブル依存症だったことにも関係するのだが、生々しい人間の欲望が剥き出しになる賭博行為と、彼の小説との相性が抜群にいい。そしてまずなにより、ドストエフスキー作品は、パチンコごときですり減るほどやわではないのだ。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』で展開される激烈な人間ドラマは博打の題材にふさわしいし、パチンコ台の前で一喜一憂する人びとの姿にはドストエフスキー的な主題がつまっている。19世紀的な総合小説の真髄が損なわれることなく、パチンコの猥雑さと合致するのだ。パチンコ店で「CR ドストエフスキー」の前に座り、やがて有り金を使い果たした賭博者が、無一文でとぼとぼと家に帰る様子には、どこかドミートリイ・カラマーゾフのような孤独と悲哀が感じられるではないか。ドストエフスキーの場合には、すり減らない理由がわかる。彼は大丈夫なのである。

「パチンコはSANKYO!」

かつてニコラス・ケイジがパチンコのCMに出たとき、このキャスティングはすばらしいと感じたことを覚えている。彼は決してすり減らない役者だ。一方、これがトム・クルーズやブラッド・ピットではいけない。彼らは仕事を選ばなくてはならないし、パチンコのCMに向かない。しかし、ニコラス・ケイジはこの仕事を受けていいのであり、それは役者としての価値をまったく毀損しないのである。だからこそ彼は強い。高らかに「FEVEEEER!」と叫ぶニコラス・ケイジは、活力に満ちており実に誇らしげだ。彼のパチンコCMは映画ファンの好感度を上げこそすれ、下げはしないし、こうしたニコラス・ケイジの特性をよく理解したキャスティング、CMオファーはまったく的確であるというほかない。そして私は、彼にしか出せない過剰さを愛しており、唯一無二の存在であると感じている。ニコラス・ケイジはこの仕事をやっていいのである。

ここまで、いくつかの例を挙げて検討してきた。なぜ、ある種の作品、作者はパチンコの題材になってもすり減らないのか、その明確な基準を決めるのは困難であるように思う。なぜなら多くの場合、それは作品、作者の持つ個々の文脈や受容のされ方に依存するためだ。たとえば「CR スターウォーズ」は何の問題もないけれど、「CR スタートレック」には多少失望するかもしれない。「CR 夏目漱石」は興醒めだが、「CR 坂口安吾」は積極的に見てみたいし、むしろ私は人生初のパチンコデビューをしてしまう可能性すらある。「CR モーニング娘。」は楽しそうだけれど、「CR Perfume」はできれば見たくないと思ってしまう。ここには文脈の理解もさることながら、少なからず私自身の主観が入ってしまっている部分があるはずだ。しかし、それなりに納得してもらえるような気がしている。

これは、どちらが上で、どちらが下だという話ではない。扱いを間違えるとすり減ってしまうタイプの作品、作者と、どれだけ消費されても平気で、逆に勢いをつけてパワーアップしてしまうような作品、作者があると述べたいのである。ドストエフスキーやニコラス・ケイジについては、なぜ彼らがすり減らないのか、その理由がある程度は推測できる。しかしなぜ、あれほどに私小説的な作品であるエヴァがすり減らないのか、あらゆるタイプの消費をくぐり抜けたあとでも高い芸術性を担保しつづけられるのか、それだけは本当に理由がわからないままなのである。

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