2019.2.25 | 非マウンティングおじさん教

公開日記。

ツイッターでの諍い、というか呟きにくいという話を聞いて、

「どうすれば救われるのか」

と考えていました。

例えばぼくが理想を叫び続け、そこに同じ想いの人が集まれば、優しい世界が!と結論が出かかって、「いや、待てよ。」

となったお話。

今回は宗教が出来るまでとその先について思いを巡らせてみました。

 マウンティングおじさんは嫌だ。

例えば。

この世にはマウンティングおじさんと呼ばれるヒトならざるものがいます。

(いや人だけど。既にこの時点で悲しい世界を生み出してしまっているけど。まぁいい。)

世の中嫌なことだらけ。
戦争は無くならない。
言い争いは続く。
出る杭を打とうとする。

誰だってそんなギスギスした世の中は嫌。だけど、マウンティングおじさんは必ずいて、監視されている気分になって、よくないループに突入する。

マウンティングに疲れた人々が僕を中心に集まる

で、ぼくはそれが嫌で、「嫌です!マウンティングしない、優しい世界がいいです」と言い続けるとしよう。

その結果、僕のようにマウンティングおじさんによる不毛な闘争に疲れた人たちが僕の周りに集まる(物理的、精神的問わず)

結果として、僕の周りには反マウンティングおじさん勢力が集まる。
いや、実際にはマウンティングに対して対抗したいわけではなく、マウンティングしたりされたりしない世界感を共有したい勢力になる。言うなれば非マウンティング勢。

反マウンティング行動が発生

マウンティングしたりされたりするのがただ嫌なだけだったはずが、数が集まったりするとみんなの感情が過激になりやすい。
あとは、非マウンティングだけではなく、反マウンティングの人も一緒に集まり、扇動をする(自覚的、無自覚的問わず)
で、今度はマウンティングおじさんを攻撃し始める。

非マウンティング宣言、非マウンティング教発生

でもぼくはマウンティングおじさんを攻撃したいわけではなく、マウンティングおじさんに関わることなく生きていたいだけ。

そこでぼくがルールを決めるのだ。


「マウンティングおじさんをうっかり攻撃してはいけない」
「マウンティングおじさんはスルーする」
「マウンティングおじさんに限らず人に優しくする」


ここで非マウンティングおじさん教が発生する。

原理主義、相対主義の発生

そして、時が進むと、
「あいつはマウンティングおじさんを攻撃したから異教徒だ!」おじさんが発生(原理主義)
「マウンティングおじさんを攻撃した人もいるけどまぁ、そういうこともあるよね。人だし」(相対主義)

と、分かれたりする。

この辺りから、「ルールを守ること」が目的になり、「マウンティングみたいな不毛な事に巻き込まれないように」という当初の意味合いは失われ始める。

よくある手段の目的化。

更に進む反マウンティングおじさん分派

原理主義の中でも

「マウンティングおじさんを攻撃したやつを許せない勢」
「マウンティングおじさんをスルー出来なかったやつを許せない勢」

と原理のどれに注目するかで勢力分けが発生。

その後、各原理主義が過激に進むと

「マウンティングおじさんを攻撃した人を異教徒と称し攻撃する反マウンティングおじさんマウンティングをする奴がいる!異教徒だ!」

と同一主義内で更に派閥抗争が発生する。

対マウンティングおじさんとしての宗教の再構築

そして派閥抗争の先に

「マウンティングおじさんは絶対に許されない教」
「マウンティングおじさんにならないように気をつけよう教」
「マウンティングおじさんの脅威にはお互い助け合おう教」

など、再構成されるのだろう。

この世はかくも難しい

こうして、最初は優しい世界を求めて人々が集まり、誰かがルールを策定し宗教が出来る。

が、しかして、最終的には人を苦しめる集団と化す。
人間の習性とはげに恐ろしいものであります。

あれか。人が人を罰したり、律したりしようとするからこうなるんだろうな。
みんな、他人のことは諦めようよ。まじで。。

という事を!真夜中3時に目が覚めてひたすらに考えてしまったのでした。

お疲れ様でした。

では。

しんどい誰かを応援したくて書いています。 しんどくて困っている、あなたとあなたの大事な人のためになれれば幸いです。