「かわいい」の呪詛

 あなたはSNSに自撮り、そう最近はセルフィーというが、それをアップロードする人間(a.k.a. “女子高生”)に対して疑問を持ったことはあるだろうか。前時代的な人らにとっては「インターネットに顔を晒すなんて危ない」「ナルシストなんじゃないの?」など言いたいことも多いだろう。しかし、考えてもみてほしい。本当に即時性のある危険が伴い、本当に唾棄すべき価値観を孕んでいるのだとしたら、こんなに蔓延するだろうか。“他人を思いやって叱ってやっている"人間たちの管巻きに反して、このオンラインとオフラインの溶け合ってきた世界では、自己の顔をアイコンとしてポップアップさせるという行為が一種の文化として根付きつつある。

 この文化の主導は女性だ。友達と遊びに行った時、旅行に行った時などに留まらず、かわいい格好や綺麗な格好をした時にも自撮りをアップロードする。そこに介在する心理が理解できるだろうか。少し前にバズった「姉ageha」の表紙を称えた投稿を思い出してほしい。「私はかわいい 私はかわいい。誰がなんと言おうと私は絶対にかわいい。大丈夫ーー。」というキャッチフレーズの書かれた表紙は数としても熱としても大きな共感を呼んだ。インプレッションの数を見ればその反響ぶりが理解できるだろう。女にとって自分の容姿を再確認し、加工し、手ずから「かわいい」を作り出すというのは、呪詛だ。希求でも哀願でも希望的観測でもない、「かわいい」という呪詛。自分が「かわいい」という状態にあるという、自分の手で「かわいい」を生み出したという実感を得るための自己暗示。そこには認識だけあればいいから、実際の自分の顔がどういう形をしていようと本質的には関係ない。その一枚の画像が自己暗示には必要なのだ。

 自撮りを生み出すことは武装であり、前準備であり、自己暗示だ。暗示の執行人たちは化粧をしたり好きな服を着たり写真にフィルターをかけたり加工をしたりすることで「自分で自分を整えたから、今日は胸を張って過ごしてもいい」という許可を自分に与える。別にそんな許可がなくたって、自分が納得できればなんだっていい。それを「容姿を整える」という場所に預けているだけの話だ。そう、あれだ。「別にモテたいわけじゃないんです/ただまっすぐ笑ってたいだけなんです」ーー。

 そうして整えた容姿を、衆目に晒すのがSNSである。「自撮りをアップロードする」という行為でもって、生み出した画像を使い儀式を行う。これは相互に行われる儀式の確認行為だ。自分がかわいいことを、自分だけではなく他人にも確認される。他人がかわいいことを、自分も確認する。この相互関係が「いいね」となって蓄積されていく。これはある側面をとれば承認の数を競う愚かしい行為に見えるかもしれないが、もう一方の側面を覗けば、背中を合わせた女たちの、共に闘おうという言外のエールだ。「あなたがかわいい状態になったことを確認しました」という「いいね」は、言葉に偏りがちなSNSにおいて、たった指先のひとなでで送れる、言葉を必要としない愛であり、自己の再確認に追随してきた思いがけない贈り物となる。

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