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2月28日 毎日が記念日

おはようございます!


人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる。

#アインシュタイン


2月28日


今日は、『バカヤローの日』

1953年のこの日、吉田茂首相が衆議院予算委で「バカヤロー」と発言した


本日のお誕生日


菅井きんさん、村下孝蔵さん、山本淳一さん、菊川怜さん、上白石萌歌さんなどなど

もんち的には、としちゃんこと、田原俊彦さんのお誕生日

本日お誕生日の方々、おめでとうございます

㊗️㊗️㊗️㊗️㊗️


田原俊彦


神奈川県横須賀市出生、山梨県甲府市出身。

小学校入学後間もなく父が糖尿病で亡くなり、一家の生活が立ち行かなくなったため、母の故郷である山梨県甲府市桜井町に転居。

母の手ひとつで育てられながら、高校卒業までを甲府市で過ごした。

高校に入学した1976年、ジャニーズ事務所に履歴書を送ったが、返事が来なかったため、東京の事務所を直接訪問。

事務所のスタッフからジャニー喜多川社長の居場所を教えられて日劇へ行き、ジャニー本人と直談判の末に入門を認められる。

テレビでの初出演は1978年の秋(当時高校3年生)、『とびだせ!パンポロリン』にて。

歌と体操のお兄さんとして出演していたギャングスの松原秀樹の代役出演であった。

学園ドラマ『3年B組金八先生』に沢村正治役で出演が決まった時、共演の近藤真彦と野村義男は実際に中学生(当時15歳)であったが、田原はすでに18歳(放送中に誕生日を迎え19歳)で高校を卒業していたため、事務所側の意向もあり、1歳若く年齢を詐称。

その年齢との辻褄を合わせるために、公式のプロフィールも「高校を2年一杯で中退」に変更しなければならなかった。

この件については、後に歌番組の中で謝罪している。

なお、『金八先生』で共演した近藤と野村とは、共に「たのきんトリオ」の愛称で人気を博することになった。

『金八先生』に出演していた当時の田原の人気は凄まじく、全国から送られてくるファンレターの数が最高で月18万通にも達したという。

1980年、レイフ・ギャレットの『New York City Nights』をカバーした『哀愁でいと』で歌手デビュー。

近藤真彦と共に、郷ひろみ、西城秀樹から男性アイドルの座を奪い取り、1980年代のトップアイドルとして活躍する。

ダンスのうまさも手伝い、日本におけるダンスビートにのせて踊りながら歌うポップスの男性アイドルとしての存在を明確にした。

当時の田原はジャニーズ合宿所では別格で、近藤も頭を下げる事があるほど絶対的な存在だったという。

第22回日本レコード大賞・最優秀新人賞、第11回日本歌謡大賞・放送音楽新人賞などを受賞。

その後も『教師びんびん物語』など、多くのドラマに主演するなど、俳優としても活躍した。

1982年、ブロマイド年間売上実績の男性部門でトップ。

『哀愁でいと』から『ジャングルJungle』まで、オリコンシングルの連続TOP10入り37作の記録を持つ。

1984年ロサンゼルスオリンピックの際には、聖火リレーのランナーの1人として、リトル・トーキョーを走った。

その際、現地報道では「日本のマイケル・ジャクソン」と紹介された。

1980年から1986年まで、『NHK紅白歌合戦』に7年連続出場していた。

1994年、個人事務所「DOUBLE "T" PROJECT」を設立し、ジャニーズ事務所から独立。

ただし、この独立はジャニーズ事務所側の反対を押し切って実行されたものと言われ、独立後はジャニーズ事務所の後輩たちとの共演は、ほぼ存在しなくなり、タレントとしても長らく不遇な時期が続いた。

しかし、田原本人は過去の独立問題と何ら関係なく、人生最大の恩人としてジャニーに対する敬意と感謝の気持ちを今も変わらず持ち続けている旨を語っている。

また、田原は前述の通り幼い時に父を亡くしているため、自分にとってはジャニーは第2の父であるとも語っている。

当時は本当に凄い人気でしたね。


本日が皆様にとって、人生最幸の一日になりますように😍


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