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無理やりオックスフォード大学の学生になった話 その2

学問にも、高等教育にも縁がなく日本で育った私がイギリスに渡り、オックスフォード大学の学生になるまでと、なってからの逸話自伝エッセイ。経済的、精神的な苦労もなく甘やかされてワガママに生きてきた日本女性の半世記。



日本での大学入学退学

意地で入った日本の難関大学だったがなんとか入れそうな学部を選んだので私にとって授業もあまり面白くなく、補欠で入れてもらったという引け目もあったし、これは私のやりたいことじゃない、と授業中ずっと考えていた。ただ2つの授業は面白かった。一つは社会学のセミナーの一つで毎週現代美術のギャラリーをめぐりながらそのようなアートが出てきた社会的背景などを考察するというもので、美術の教科書に出てこないような、聞いたこともない芸術家たちが世界に与えた影響、世界が芸術家たちに与えた影響を学んだ。見たことのない、こんな世界があったなんて、とワクワクした。翌週までに提出するレポートにも、良い点がついた。もう一つの好きだった授業は英語のクラスでヒッピーみたいなアメリカ人の先生だった。授業中英語を教えるのに裸足になり、脱いだ靴の中に、ポケットに入っていたコインをジャラジャラ入れてヨガのポーズをみんなにも促す。やり方が面白いし、背筋はスッキリするしで好きな授業だったのだが、ある日大学からその授業はキャンセルになったと連絡がきた。彼は授業に泥酔状態で現れたので、即解雇になったそうである。それから他の授業にもだんだん出席することなく、家を出ては美術館や博物館に入り浸っていた。

年度末に大学から実家に連絡があり、私が授業に出ていないこと、成績の付けようがないことなどを通報された。両親からは学費を無駄にしていることをこっぴどく叱られた。その学科は向いていなかったからとか、アート的なことがやりたいからと言っても私はわがままで自分勝手なだけだと、理解はしてもらえなかった。ごもっとも。退学することを現代美術のセミナーの先生に言いに行き、先生のおかげでアートに目覚めたと感謝していると伝えると驚いて残念がってくれた。彼は私は他の科目でも同じように真面目に出席し課題を提出してると思っていたようだ。

それからイラストレーションの専門学校を探すうち、ある芸術家集団が開催している寺子屋みたいな工房の存在を知った。版画や写真の教室があり、版画の技法ごとに異なる講師が週一日、一応集まるのだが、基本はまあまあ教えてくれるものの、年間の受講料を払えば、あとは好き勝手に道具施設を使って制作してね、というところだった。現代作家を招いてのワークショップやトークなども面白く、いろんな形のアート触れることになった。そこでベルリン在住の日本人アーティストのワークショップに参加した時、彼女からルドルフシュタイナーのアートセラピーのことを知った。彼女は帰国の度ワークショップに招かれたり、個展を開き個展を開いたりしていた。私もああやって生きていきたい、というお手本のような人だった。その工房に3年ほど出入りするうち一応のスキルをみにつけ、作品作りや展覧会も何度か経験した。そうこうするうち、その工房の先輩が、銀座にある広告制作会社の制作部の仕事を紹介してくれた。デザイナーの指示したデザインの版下を作ったり、写真部門のアシスタントをしたりとういう仕事だった。そこでそれなりの定収入を得ることができた。実家に住んでいたが両親は家にお金入れろとは強制しなかったので、収入は全てお小遣いだった。仕事は忙しかったが、それほど責任もなかったから、毎日適当にキリのいいところで仕事は切り上げて、銀座で友人と落ち合って飲み食いしたり、8時ぐらいまで開いている画廊や、映画を見に行ったり、銭湯に行ったり色々な講座に行ったりしてアフター5を楽しんだ。楽しかったが海外に行くという夢は忘れれなかった。そのころどこの国へ行きたいかはまだはっきりしていなかった。とにかくあまり日本人のいないところに行きたかった。アメリカやオーストラリアにいく若者は多かったが、私は歴史や文化のあるヨーロッパのどこかに行きたいがどの国に行きたいかはあまりはっきりしていなかった。そこで働いている間、やめた大学のまだ交流のあった友人と7週間の欧州バックパック旅行に出かけることにした。脱出先を探すためである。契約社員だった私は休むのも割と自由だったし、上司にも気に入られていたので、旅行後も同じ職場で働くことができた。

いつになったらオックスフォードの学生になった話になるんだと思っている方、それはこの時点から35年後のことです。
続く


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