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映画『花束みたいな恋をした』をめぐって

 『花束みたいな恋をした』は、『劇場』、『ソラニン』、『ピース オブ ケイク』などと似たタイプの映画だ。東京の下町のボロアパートでボサボサヘアのサブカル男子がロクでもない恋をする。個人的に、このタイプの映画は家で見るに限る。映画は家派?映画館派?という野暮な質問が世間にはあるけれど、ただひとつの正解は「私ではなくその映画が決める」である。

 花束みたいな恋がどのような恋なのかはよくわからなかったけれど、この映画をリアルタイムで見て広告代理店志向に染まった麦くんみたいには絶対になるまいと誓ったであろう私と同世代の有象無象のサブカル大学生たちは、いま社会人になってどうしているだろうかと、ふと思った。そういう人たちのことを考えたくなった。
 今村夏子を読んでも何も感じなくなったか。責任という考え方には馴染んだか。真面目に働いてお金を稼ぐことがどれだけ大変かを知るごとに、人生をナメることはできなくなっていってしまう。有限な時間と体力の中ですべてを大切にすることができないことを知ったとき、何を取り何を捨てるかが、その人の為人であり人生なのだろう。安定した生活とそのための仕事を選択することが感受性と享楽を捨てることであるとき、その人は未来のために現在を捨ててしまったのかもしれない。というより、未来への責任を背負い込む中で、不要な荷物を少しずつ降ろさざるを得なかったことにずっと気づけずにいたのだろう。
 そんなふうにはなるまいと、私にまだ言えるだろうか。社会に迎合し、仕事に慣れ、かわりに趣味への体力をなくし、きっともう私は、心も体も学生ではなくなっているだろう。大学の同期は、結婚という問題がもう目の前まで差し迫ってきていると言った。先輩は仕事についての私の無力感の吐露に対して、でも僕らの責任だからねと、淡々とした口調で繰り返した。単にそういう年齢だということなのか。21歳と23歳はあまりにも違う。

 ラストの3か月は一抹の希望にも思えた。麦くんがあの3か月を「ただ楽しい今この瞬間」として過ごしていけたのが希望だった。バロンの引き取り手を決めるじゃんけんのシーンで「なんでパー出すの?」と言った絹に対し、「大人だから」と返した麦。このやりとりがコミカルに描かれていたことがすごく嬉しかった。大人になってしまった自分を笑うことは、大人である自分も子供である自分も等しく受け止めたところにある健全な諧謔だと思う。それは子供→大人という不可逆な道のりを経たその先にしかないけれど、大人になった自分の中にはまだ子供である自分もきっといて、それは子供である自分を捨てることとはまた違う。大人という時間に少し寄り道をするだけだ。


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