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コーヒーといろんな車の話

少し前までどのお店でもゆったりと配置されていた椅子やテーブルが、ここ最近は様子が変わり、ずいぶんと間隔が近づいているような気がします。
そのせいか、聞き耳を立てているわけでもないのに、他のテーブルの会話もよく聞こえてくるようになりました。

私が昨日出かけたのは、ある有名な純喫茶で、土曜日の午後のためか、そこそこに広い店内は満席でした。
店内はアンティークの家具や調度品で飾られ、店員さんの挙措や、流れる室内楽も静かで上品です。

私と友人はそれぞれグァテマラのシングルオリジンと、コロンビアベースのブレンドコーヒーを注文し、会話に調べものにとくつろいで過ごしていたのですが、ひとつ気になることがありました。


斜め向かいの席の、スーツ姿の3人の男性たちです。
この人たちは、席に着いた瞬間から、まるで縛りがあるかのように、車の話だけをし続けているのです。

それ以外で口にしたのは
「“本日のおすすめ”を三つください」
店員さんへのオーダーだけで、後はひたすら、自分や誰かの車の話題です。

特に集中して聞こうとしなくとも、バロック音楽や他のお客さんの話し声の合間を縫って、話はそのままこちらの耳に届きます。

この三人の男性の価値観はかなり風変わりで、すべてを車を通して理解し、考察しているようなのです。 


たとえば、つい最近結婚した友人の奥さんは、残念ながらあまり良い人とは言えない。
なぜなら
「馬鹿でかいステーションワゴンに乗っているくせに、やたらと急な車線変更をする」
から。
「短気で自己中心的ってわかるよね」
そう言って皆で苦笑いです。

あるいは
「ずっと同じメーカー、同じ車種のセダンに乗り続けている上司」
の評価は
「保守的。刷り込みに弱く、面白みのない性格」
と散々です。

「うちの会長はドイツかぶれだし、乗るのもアウディベンツばっかり。ご大層で堅苦しい」
誰かがそう言ったかと思いきや
「うちは右翼だから。国益を考えてレクサスオンリー」
「ああ。おたくの社長はね。わかりやすい成金だよね」
「金持ちの自己顕示欲で、レクサスに乗るなって。いい車なのにもったいない」

もし当人に会話を聞かれれば、エアバッグも間に合わない大事故なのは確実ですが、三人はしんから楽しそうに、独自の“愛車判別法”ともいうべき基準で、次々に周囲の人々を斬っていきます。

もし私がここへ“ありきたりな色のありきたりな国産車”で来たことを知れば、一体何と言われてしまうのか、大体の予測がつくため冷や冷やものです。


世知辛い批評に疲れたのか、三人はマクラーレンフェラーリランボルギーニなど憧れの車について話し始め、もし話を振られたら、私ならどんな車をあげようか、とひそかに脳内でシミュレーションをしてみます。

すぐに思いつくのは『007』のアストンマーティンDB5や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンあたりでしょうか。
けれど非常に残念ながら、私にはQやドクがいないため、それでは普通に英国デザインやガルウィングを楽しみたい人になってしまいます。

では、古いフランス映画で観て以来の憧れ、シトロエン2CVは?
けれどこのクラシックカーは「実際に道路を走るより、整備工場のガレージに停まっている時間の方が長い」とまことしやかに語られるくらい、故障が多いとも聞きます。
実際にこの車のオーナーにお会いした際、その真偽を確かめてみました。

「それ、買う前に僕も人から言われましたよ。嘘でしたけど」
その方は笑って私にこう教えてくれました。
「元々が大衆車だし、そんなにひどい故障ってしないもんなんですよ。ただ、やっぱり細かいトラブルはつきもので、修理代がそろそろ本体価格を上回りそうですけど」

こんな風に笑い飛ばせるだけの豪気さを持ち合わせていないため、私にはシトロエン2CVは、叶わぬ夢となりそうです。


もっと妄想的な話ならば、マルグリット・デュラスの信奉者である私は、彼女の作品に登場する
『白い木綿のお仕着せ姿の運転手のいる黒い陰鬱な大型リムジン、引き戸式のガラス窓がはまり、補助席のついた、まるで部屋のように大きな自動車』
あるいは
『カルカッタのフランス大使館の黒塗りのランチア
に乗り、旧世界のドラマを体験してみたいとも思います。

それとも、マリアン・ウィリアムソンが言うように、精神の充実と向上を図り
『まず神の国を求めよ。時が来れば、望みのマセラッティがあらわれる』
のを待つべきでしょうか。


「これ、ミルク入れるとますますコクが深くなるよ。コーヒーの味が、複雑に甘味の中から立ち昇ってくる感じっていうか」
コーヒー好きの友人が、感嘆の表情とともに差し出したカップによって、私の夢の車の空想は破られました。

斜め向かいのテーブルでは、相変わらず熱心な車談義が続いています。
けれども私は手の届かないクラシックカーよりも、現実の一杯のコーヒーを選びたいので、友人の勧めに従い、手の内のカップのもたらす至福を味わいます。

今度、どこかで美味しいコーヒーをテイクアウトして、景色の良いところまでドライブに出かけるのはどうでしょう。
私にとっての車との付き合い方は、そんな具合が最もしあわせで、ちょうど良い気がします。

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