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にせものの笑み

仮装するのは愛らしい。
仮装させられるのは悲しいことだ。

── ガブリエル・シャネル


〈 精神科医にはよく知られたことだが、境界性パーソナリティ障害の患者には、きわめて魅力的な美男美女が多い 〉

最近ふとしたところで見つけ、印象に残った文章です。

"境界性パーソナリティ障害"は、対人関係における不安定性や過敏性、自己像の不安定性、極度の気分変動、衝動性の広汎なパターンが特徴的な疾患です。

もっとわかりやすい言葉で言うと、孤独に対する耐えがたさ、人から見捨てられたり、一人になることへの強い不安と恐怖を抱え、多くの場合は鬱病やパニック障害といった不安症、心的外傷後ストレス障害、摂食障害、物質使用障害などを併発します。


適切な治療によって症状は改善し、再発の可能性も低いとはいえ、自らの命を危険に晒す行為も有り得、なおざりにできる病ではありません。

にもかかわらず"美男美女が……"などというのは、ずいぶんのんびりとした話です。


その文章を読んだ数日後、精神科医の友人と会う機会があったため、その記述が本当かどうかを聞いてみました。

「そうだね。特別にきれいだったり美男美女ではなくても、魅力のある人は多いと思う」
友人は当然のごとくうなずき、その原因を尋ねる私に、あっさりと答えました。

「必死だからだよ。あの人たちは、いかにしてこちらをコントロールしようかとか、どうやったら好かれるかってことしか考えてないから」
「それと魅力はどう結びつくの?」
「この人に依存したい、あるいは利用したい、って全身でぶつかって来る人の凄まじさたるや。それこそ命がけだし。そんな人たちは、やっぱり何か異様な、普通じゃない魅力を持ってる」
「実際の患者さんにも、そういう人がいた?」
「何人も。特に、ある人には散々振り回された」


私があまりに好奇心を露わにしていたためか、友人は話を続けてくれます。

「まだ医者になったばかりで不慣れだったし、そのあたりの迷いも見透かされたんだと思う。相手はいかにも気のある素振りで、明らかにこっちを誘惑したり、駆け引きを仕掛けてきてた」
「精神科医相手に?自分が主導権を握ろうとして?」
「珍しくもないよ。その人は特別だったけど。だから今でもよく覚えてる。ものすごい花束が届けられたりとか」
「普通はそんなことってない?」
「絶対に」


この病を患うと、孤独を極度に恐れるあまり、これという相手をつなぎ止めるため、時に分別を失った行動を取るそうです。

それは苛烈なまでの生存欲求で、自分の心身や財産までも差し出すような、痛ましい例さえあるといいます。


境界性パーソナリティ障害の話からは離れるものの、私はつい先頃、構造的にはそれと酷似した実話を読みました。

その人も、生き延びるため命がけの駆け引きをし、相手に取り入り、発揮できる限りの魅力と賢明さで世渡りをするという闘いを強いられました。
それも、まだ5歳という年齢であったにも関わらず。


その人は家族や親族を皆殺しにされ、一夜にして全ての縁者と帰る場所とを失いました。
絶命寸前まで追い詰められたその人が頼り、欺き、関心を繋ぎ止めなくてはならない相手は、身内を手にかけた殺人者たちでした。

このルポタージュの著者マーク・カーゼムの父親アレックスの身に起きた出来事は、およそ常軌を逸しています。
ユダヤ人の少年が、身分を偽ってナチスに保護され、突撃隊の制服を着て、彼らの"マスコット"として名を馳せていくのですから。


マスコット
──ナチス突撃兵になったユダヤ少年の物語

というその本は、すでに老年期に入った父親の突然の告白を皮切りに、おぼろげな記憶の断片を探り、不明瞭な過去の真相を辿っていくノンフィクションです。

ある日、父親が「自分はラトビアの寒村出身のユダヤ人で、ポグロム集団殺戮の生き残りだ。自分だけが難を逃れ、冬の森でたった一人、数ヶ月を生き延びた。そしてまたもや処刑の危機を切り抜け、ナチスお気に入りの少年兵として、別のポグロムやユダヤ人移送にも立ち合った。プロパガンダに利用され、ヒトラー・ユーゲントドイツ青少年団の先頭を歩き、ナチス翼賛映画にも出演した」という秘密を話し始め、混乱と葛藤の日々が始まります。


やがて調査と共にその告白が裏付けられ、年端もいかない子どもが絡め取られていった巨悪の異常さ、残酷さが浮かび上がります。

敵の巣の中に落ちた少年にとって明確なことはひとつきりで、決して自らの正体を見破られてはならない、ということでした。
どんなささいな失態であれ、それは容赦ない破滅を意味し、機転と愛嬌、素早い状況判断と感情の抑制で、紙一重の死を避け続けねばなりませんでした。


彼らに愛されること。役に立つこと。
それが自らに与えられた役割だと理解したアレックスは、命を担保とした賭けを数年間にわたって続けます。
名前も、記憶も、過去の自分とのつながりも、あらゆる全てを失いながら。

結果的には、ナチスの壊滅によってアレックスは新天地での生活を始めるものの、誰にも話せない罪悪感と、きれいに抜け落ちてしまった"冬の森"以前の記憶の欠落に苦しみます。
自分が本当はどこの誰か、両親の顔も故郷も、まるで思い出せなかったのです。


この本の出版により、アレックスと息子マークは、あらゆる毀誉褒貶にさらされました。

批判的な声の中には、事実関係の曖昧さや調査の不完全さの指摘の他、アレックスを恥ずべき人間として罵るものも存在します。

「いくら子どもとはいえ"何も知らなかった、わからなかった"はずがない」
「殺人者の手先」
「嘘つき」

犯罪被害者にとっての二次被害そのもののようなこれらの声には、偏見と無理解が満ちています。


天涯孤独で、無一文。警察や公的機関は、自分を見つけ次第、殺しにかかってくると知っている。そんな子どもが、他に生きる手段をどう選べたでしょう。

その上、周囲は巧妙に現実を隠し、どんな悪事に加担させられているのかを、アレックスには決して気づかせませんでした。

そうでなくとも、我が身を守ることで精一杯の5歳の子どもに、その裏の真実と計略を見破れなど、どだい無理な話です。


彼を批判する人たちは、自らが銃殺隊の前に立たされた時、助かる手段があったとしても、それを行使しないのでしょうか。残されたかすかな可能性にすがろうともしないのか。

少なくとも私は、生き延びることを願うでしょう。
人間が持つ、生きることへの切なる願望は、理不尽な死の前で、抑えがたく昂ぶるはずだろうからです。


そうでなくとも、アレックスの命がけの行為を咎めだてする資格は、誰にもありません。

自然な親愛の情により、喜びを持って周囲と親しさを築くのではなく、防御のため相手の顔色を窺いつつ、策を凝らし、頭を巡らせ、愛されるよう心を砕く。しくじれば一瞬にして全てが終わる。
これほど気が休まらず、辛いこともないでしょう。

現に、終戦まで命を繋ぎ、新たな人生を得てもなお、アレックスは生涯その苦痛からは逃れられませんでした。

たとえどのような時代や状況下であれ、誰もが真の安堵の中で、誰かと心から笑い合える。そんな平穏を願ってやみません。




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