知りすぎていた男。
作曲家パウル・ヒンデミットは、彼が生きた時代そのものを代表する巨匠である。
1895年に生まれ、20歳でフランクフルトのコンサートマスターになった頃に世界大戦に巻き込まれ、戦争で父を亡くしたあと、作曲活動が表ざたになってから、ヒンデミットは常に時代の中心にいた。
1921年、ドナウエッシンゲンの現代音楽祭が誕生したとき、彼は既にそこにいた。1922年、始まったばかりのザルツブルク音楽祭において現代音楽の集まりがあったときにも、やはりそこにいた。
32歳にしてベルリンの作曲家教授となり、ヴィオラ演奏家としても名をはせるヒンデミットに向ける、ナチスの目が煌々と光り出すのに時間はかからなかった。
「退廃芸術」
どこにいても、あらゆる情報が交差する中心に位置していたヒンデミットは、その時何を見ていたのだろう。
1938年、核分裂に関する驚異の実験結果が明らかになり、ドイツにおける新型爆弾の開発に警鐘を鳴らすアインシュタインとシラードの手紙がアメリカのルーズベルト大統領のもとに届いたとされる1939年、そのことを知りえていた人の中にヒンデミットがいたのではないか、と妄想を抑えることが出来ない。
1938年、バレエ・リュスのレオニード・マシーンからの依頼に応じて、ヒンデミットはバレエ「高貴な幻想」Nobilissima Visione を書いた。
「高貴な幻想」は太陽を賛美する愛と平和の象徴、アッシジの聖フランチェスコを題材にしている。聴く者の胸に迫る、その透明極まる音響が何によってもたらされたものなのか。
1941年、ルーズベルトの招きでホワイトハウスに赴いたトーマス・マンが、マンハッタン計画について知り得たのがいつのことかはわからない。
「ファウスト博士」を書き始めた1943年にはすでに知っていたかもしれないということさえ想像にすぎないのに、ヒンデミットが近く訪れる世界の変革について1938年に理解していたということは、あるはずがないと言えばそれだけにすぎない妄想なのであろう。
全てが知られることとなった後、1949年にハーバード大の教壇に立っていたヒンデミットは次のように述べたという。
あまりに理想主義的だといえなくもない言葉も、かつて時の最先端の全てを知り得たであろう位置にいたヒンデミットの口から発せられたものであるとすれば、そこにある切迫した思いを何かに置き換えて言い表すことが出来ないかと思って、ありもしない妄想をしたためた。
バレエ Nobilissima Visione の、全てが透けて見えるような尋常でない美しさ、大きさを伴わない広大な空間の中で、いま何を受け取ることが出来るのだろうか。いま世界で何が起ころうとしているのか、何も知らない自分が。
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2023年3月31日(金) 20:00開演
「至高の幻想」
LUDUS TONALIS - VOL.1
ピアノ:山田剛史
ヴィオラ:小峰航一
https://www.cafe-montage.com/prg/230331.html
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