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【山口】伝説のアマチュアゴルファー中部銀次郎と「下関ゴルフ俱楽部」

上田治設計の下関ゴルフ倶楽部

1945年当時、山口県・下関周辺にゴルフ場はなかった。

ゴルフ愛好家たちは、関門海峡を渡って門司ゴルフ倶楽部(福岡)へ通った。

1947年、ようやく下関に「川棚温泉ゴルフ倶楽部(下関ゴルフ倶楽部の全身)」の3ホールが完成すると、さらに18ホールへの増設計画を立て、設計家の上田治に現地視察を頼んだ。

ゴルファーの間では「東の井上誠一、西の上田治」または「柔の井上、剛の上田」などと呼ばれ、井上誠一と並び称されるゴルフコース設計家の一人である。


ところが上田は、既設の3ホールには目もくれず、足下に広がる「八ヶ浜」を適地だと推した。

「そこは砂浜ですよ」

「砂浜だからいいのだ」

との応酬があった。

八ヶ浜は、古くから「月の松原」とも賞賛される景勝地で、海風も通り難いほどの松の巨木が密生していた。

平安朝の時代には、“無呂の港”と呼ばれ、大陸との交通の拠点となり、遣唐使・安部仲麻呂が、ここから大陸に出発したという記録も残っている。


しかし、八ヶ浜の用地買収は難航した。

八ヶ浜は「森の白浜」とも呼ばれ、「弘安の役」の遺跡が残る地であった。

西洋人が女連れで遊ぶゴルフは八ヶ浜の歴史を汚すと、巨松を伐ることへの反対が強く、地元民が道路に杭を打って抵抗したという。

そのため、上田は9ホールずつ造ることを提案し、18ホールが揃うのに4年の間隔で工事を進めることにした。


だが最初の9ホールの芝張りを終った段階で資金難に陥り、大洋漁業(現・マルハニチロ株式会社の前身)の副社長・中部利三郎が経営に乗り出した。

1955年、中部利三郎は理事長に就任し、以前の川棚温泉ゴルフ倶楽部から「下関ゴルフ俱楽部」と改称、翌年1956年には先だって改造9ホールによる正式開場を行った。

だが18ホールとなるのは、前記の通り4年後の1960年まで待たなければならなかった。


1960年からの20年間は、下関ゴルフ倶楽部の名が、日本ゴルフ競技史に、光彩を放ちつづけた時代だった。

1961年には下関ゴルフ倶楽部の所属プロ・細石憲二が日本オープン選手権で5人でのプレーオフを制して優勝した。

スタート直後には日没となり、自動車のライトでコースを照らし、懐中電灯でカップの位置を示す時代だ。

のちに“暗闇プレーオフ”と呼ばれる歴史的な出来事となった。


そして下関ゴルフ倶楽部の中部3兄弟の出現がゴルフ界にセンセーションを巻き起こすことになる。



「プロより強いアマ」と呼ばれた中部銀次郎

下関ゴルフ倶楽部は、大洋漁業の副社長・中部利三郎が、息子一次郎、幸次郎、銀次郎の3兄弟のために造ったのが始まりとされている。

下関ゴルフ倶楽部ができるまで、3兄弟は、下関海峡を渡って父のホームコースである門司ゴルフ俱楽部でプレーしていた。

1959年、長男・一次郎は日本アマチュアゴルフ選手権で初優勝を飾っており、次男・幸次郎はナショナル級の選手として活躍した。

そして、三男・銀次郎は1962年の初優勝に始まり、6回日本アマチュアゴルフ選手権に勝利している。

その歴代最多勝利回数は記録として今でも残っている。


銀次郎は小さい頃は虚弱体質で、父親から散歩がわりにとゴルフを勧められたそうだ。

父親が会員だった門司ゴルフ倶楽部に通い出し、その後、父親が理事長を務める下関ゴルフ倶楽部へ移る。

そこで天賦の才を開花させ、下関西高2年のとき、大学生に交じって関西学生に優勝し、一躍その名を知られるようになった。

その後、甲南大学に進み、2年生のとき(1962年)史上最年少で日本アマを初制覇している。

1964年には2勝目。

その後、社会人となりサラリーマンとしての本業と並行して、66年、67年、74年、78年と勝ち、史上最多の6勝を挙げている。


日本アマの1カ月前になると、好きな酒を断ち、友達づき合いもやめてモチベーションを高めていったという。

1967年にはプロトーナントだった西日本オープンにも勝ち「プロより強いアマ」と称された。

しかし、生涯プロに転向することはなかった。



中部銀次郎がアマとして貫き通した理由は、1960年、米国メリオンゴルフクラブで行われた「アイゼンハワートロフィ」に出場したことにあった。

同大会はアマゴルフの国別対抗戦で、銀次郎は日本代表ナショナルチームの一員として参戦したのだが、米国代表には2年後プロ入りし、全米オープンを勝つことになるジャック・ニクラスがいた。

そこで銀次郎が見たのはニクラスの底知れないパワーだった。

ティーショットを深いラフに入れたニクラスのボールを、銀次郎は「刻むしかないな」と思ったそうだ。

しかし、ニクラスは3番アイアンで高い球を打って、こともなげにグリーンオン。

ロングアイアンは日本人には打ちこなせないといわれていた頃である。

そのショットを見て、銀次郎は「自分は世界で戦う器ではない。井の中の蛙でもいい。そのなかでトップになろう」とアマを貫く決心をしたそうだ。



1991年と2002年に日本のプロゴルフメジャー大会の一つ「日本オープン選手権」が下関ゴルフ倶楽部で開催されている。



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