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映像と音楽と人間と季節と-単なる必要最低限の文化的で人間らしさをな、生活

映画見てる?在宅してる?友達に会ってる?

気がついたらの長月。それは9月を意味しているのだけど、相変わらずの日々です。

仕事をして、映画を見て、落語を見て、友達と遊んで、本を買って、レコードを聴いて、外食をして、運動を少しばかりして、また働いて、寝て、朝が来て、また働いて、映画に行って、ご飯を食べて。

東京という街に暮らす理由は、何かの表紙にこうした「ちょっと行こうかな」と感じた時に生まれた感情を、受け止めてくれるカルチャーを手に入れる場所があること。
僕が住んでいたい理由は、本当にここにある。

なんていうか、すごく前からコンサートのチケットを手に入れて、楽しみにすることも素敵な出来事だと思うけど、気が向いたら出かけてみて、寄ってみて、足音を残していくことの出会った時の感動は何よりも喜びに満ち溢れてしまう。なんとなく、四葉のクローバーを拾ってしまった感じになる。

好きなものは好きだし、難しいことは考えずに知るきっかけが欲しいし、知らないことだったらなおさら嬉しいし、大っ嫌いだったら自分の気持ちを再確認すればいい。

それができる街。東京。

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インターネットで見ることができるものもたくさんあるけれど、意図しない瞬間が好きだ。

突然気がついてしまう瞬間。クラスメイトがメガネじゃなかったら、「え!?かわいいんですけど」。
そんな記憶が歩いているだけで呼び起こされる街。東京。

なんとなく触れ合えてしまう街、それが東京。
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【映画】
映画館に通いやすい街に住んでいる。空いている時間になんとなくスマホの電源を落として、誰かの主張、知らない世界の暮らしぶりに触れて、没頭したい。
だから、映画館で映画を見ることが好きだ。
どちらかというと、その没入感に慣れてしまったことで、僕は自宅でサブスクリプションや映像作品を見ることができなくなってしまった。

だから、僕は映画館が好きだ。

空いている時間にどう調整すれば、映画が見れるのかを調べる。それが癖。スマートフォンのありがたみを感じるとしたらまさにそれ。
IT文化よありがとう。

▼真夏の夜のジャズ 4K

そおに「永遠に続く夢はあるのかい?」と感じながら見る、ニューポートでのジャズフェスティバルでの記録。というよりも、記憶。

これまでDVDなどを手に入れることもなく、「いつか見れる機会があればいいな」と思いながら、時すでに令和2年。

ゴスペルシンガー、マヘリアジャクソンが1曲歌い上げたあと、「スターになったみたい」と言ったけれど、その眼差しは、ただやさしく自分の声に酔いしれた観客に対して「ありがとう」とだけ伝えているかのような優しさに溢れていた

帰り道、有楽町から東京の丸の内を歩きながら、仕事帰りの人たちにまぎれて歩いてみたら、ジャズの余韻に包まれながら小躍りするようなステップを踏む自分は、少しだけスターのような気分になった

チャックベリーが、スウィートリトルシクスティーン!
と歌った時、別にNew Normalとかよくわからないふわっとした概念なんかよりも、Old Standardみたいな純粋にみんなが感じる「イケてる感」が好きな自分に気がついた

部屋ではとりあえずジャズメッセンジャーズを聴いた。

▼ハニーボーイ
どんな少年時代を送ったとしても、「愛」を感じてしまうことで抜け出せない日常がある。
きっかけさえあれば、きっと外に出ることができるのかもしれあい。
でも、どこか引っかかる相手への愛情。

人気子役の稼ぎをあてにして暮らしている前科を持つ父親。
アルコール依存に苦しみながらも、過去を理由にしているように見えてしまう。

家庭内暴力があっても、大切なひとを傷つけられても、そん場所にいる主人公。

僕は父親との関係があまり良くない。むしろ、悪い。そんな時代を思い出させてくるには十分すぎるほどの目に入ってくる光景。

息が苦しい。何かを動かせば変わってくれるのか?期待していいのか?きっと主人公は悩んだんだろうな。でも、
何も変わらないのかもしれない。

それでもぬけだせないのは、いつか愛情を取り戻せるかもしれないという淡い期待。

最後に守ってくれるのは親なのかもしれないときっと思っていた時期も僕にはあるんだとおった。
ただ、砕かれることもあった。
しかし、自分の力だけではどうしようもない環境がある。そういう時には人は期待するしかないのかな。

そう思いながら見ていたら、2時間が過ぎた。後味?なんとも言えない。

血縁だから、親子だから、近しい間柄だから許される?そんなことはない。
少なくとも当人にとってはない。

そんな光景なのに、あまりにも映像が綺麗すぎる。思い出すのは、海の中で、毒を持つ生物ほど見た目があまりにも美しいということ。

毒か。うっかり体内に入ってしまった毒には解毒剤がある。でも、過去の記憶には解毒剤はない。

今を生きることで消化することにした。

▼凪の海
舞台は愛媛県宇和島市。そこに住んでいた1人の青年が死んでしまう。離婚した妻、故郷を捨てた弟が葬式のためにまた集まる。
待ち受けているのは、小さな集落での人間関係。
もう、集まることのなかった人たちが交差することで、それぞれの記憶に過去の「なかった」はずの記憶が蘇る。

もう、歯車が止まったはずの出来事は、何かの拍子に動き出してしまうというのは時間の悪戯かもしれない。
そんな時、自分たちは何をする必要があるのかな・・・。

過去を解消するべきなのか、無視して自分の生活を生きることにするべきなのか。その答えは安易に出せないことはわかっているし、気軽に口にするべきでもない。

ここではそれぞれの立場の人間が「自分ができないこと」「やっていないこと」「やらなかったこと」を全てを
何かしらの他人の振る舞いを理由にしている。

でも、動き出すには自分だけじゃなんか。いつかやろうとしていることは今していない人は多分いつまでもできないんだよな。
理由を外に向ける前に、一回外に向けなよ。
と、感じながら自分は外的な要因のせいに何かをしていないか?と感じてしまう。

悲劇のヒロインは永遠に悲劇のヒロインだ。勇気を持ちなよなんて綺麗事。でも、悲劇のヒロインは永遠に変わらないよ。


▼ようこそ映画音響の世界へ

映画において重要な位置を占める「音楽」というか、「音」。
その出立のきっかけはなんだったのかを技術的、背景的に振り返る、映画史のようなドキュメンタリー映画。

人は、空間に没入する時に、最も語幹をすまされるのは音なんじゃないかって少し思ってる。

目に入るものは事実で、耳から感じること、それは「感情」。もしかしたらそれって圧倒的に情報量は音の方が詰まっているんじゃないかって感じる。

日の目を見ることのないかもしれない裏方仕事のおかげで、僕たちは映画を通じて、一生触れない触れないかもしれない世界を、1800円で、2時間で見つけることができる。

きっと、それもこの人たちが長い間実験を繰り返して見つけてくれた形があるからなんだろうさ。

文字よりも絵だし、絵よりも声。なんでかって?目を瞑っても世界を想像することができるからだよ。

▼mid90s ミッドナインティーズ

「誰にでもある話」かもしれない1990年代のロサンゼルスを舞台に、13歳の少年の成長を描いた青春ドラマ。
スケートボードとの出会いが仲間と出会い、世界を広げて、どこに飛んでいくかわからない自分を「1人の僕」に仕立てていく。

美しい青春映画だけど、こうした出会いをきっかけにできるのは、「何かをしようとする」から。
だけど、そんなにうまくいかないし、そもそも動こうとするから手に入る世界でもある。

啓蒙作品でもなんでもなく、90年代のストリートの理想像を描いている作品。
とりあえず僕もスケボー買いたくなって始めることになりました。

90年代信仰はダサいけど、それだけ何かを始めることに対して敷居が低かったのかもしれない時代なのかなと思った。

▼行き止まりの世界に生まれて

12年間の3人の若者を追いかけたドキュメンタリー。
スケートボード が彼らの生きがい。

生きがいというか、それしかない。閉塞感に溢れた街で、逃げ場のない家庭の中での出来事を忘れさせてくれるのは
スケートボードだった。

いつも友人としてつるんでいるメンバー。だけど、そこに本当に友情があったのだろうか・・・。
スケートボードを通じて、「行き止まるしかなかった世界」から淡い期待で「行き止まりのない世界だった」と知るきっかけさえないまま、
毎日を過ごしていく3人と、その周辺の大人たち。

こおkにあるのは理想でもなく、単なる現実。

幸運にも気がつくことができたのであれば、抜け出せる。でもそんなきっかけがあることを知らないまま過ごすkとになる人生もある。

特に世の中はチャンスに対して無慈悲だ。

名作ドキュメンタリーだと思う。

僕は幸いにも気がつくことができた。教えてくれる人が周りにいた。


またね


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