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東京献血奇譚 〜滝沢正義の場合〜【短編小説:約9000字】

「ったく、なんでこんな時に」
独り言を呟きながら、滝沢正義は駅に繋がる道を走っている。

入念な下調べをして空き巣に入ったはずだった。閑静な住宅街、普段ならその一軒家は夕方は無人になる。人通りも少ないから、周囲に気を配りさえすれば、誰の目につくことも無く仕事を済ませられる。所要時間は10分も有れば事足りるのだ。これまで何軒もの空き巣を繰り返してきた滝沢にとって、簡単な部類の仕事のはずだった。

しかしその日に限って、たまたま住人の男が忘れ物を取りに帰って来た。そして異変に気づいた男が警察に通報する声が聞こえてきたのだ。滝沢は部屋を物色する間もなく逃げざるを得なくなった。

逃走経路は考えておいた。2階のバルコニーから排水管をつたえば簡単に降りられる。そのはずだったのだが、ここでも焦りから周囲の確認を怠って、隣家の住人に目撃されてしまった。

予定していた逃走経路を諦め、玄関を正面突破することにした。階段を降りると、滝沢の存在に気づいていた男が待ち構えていた。だが下調べ通り、目の前に立つ男は70歳前後だった。滝沢はまだ20代なのだ。突き飛ばし、外へ逃げ出ることは容易だった。

外へ出た刹那、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。「マジかよ」、滝沢は呟く。実際そのパトカーは住人が呼んだものではなく、別の場所へ向かっていたのだが、余裕を失った滝沢は慌てて駅の方へ向かって走るのだった。

住宅街の目立ち難い道を選びながら、かぶっていた帽子を脱ぎ、シャツも着替えた。駅前は人通りも多く、上手く紛れてしまえばそうそう見つかりはしない。かと言って、多少なりとも人目につかない場所で時間は稼ぎたい。そう思っていると、偶然にもパトカーが駅の方面に向かって来た。「クソッ」吐き捨て周囲を見渡すと、駅の側道に停車する白い大型バスを見つけた。

『あなたの血液を分けてください』
立て看板にはそう書いてあった。
「献血車か、ちょうど良いかも知れねーな」
まさかこんな所に逃げ込むとは思わないはずだ。独りごちてバスの方へ向かう。

車体に施された赤い十字にいくばくかの違和感を覚えたが、小さいことを気にする余裕は無かった。捕まるわけにはいかない、今の滝沢はその一心で動いている。

バスの入口に着くと、そこに立っていたのはコスプレかアダルトビデオでしか見ないような、薄ピンク色の丈の短い白衣を着たナースだった。ワンレングスの黒髪ロングヘアに切れ長の瞳。背は高く、スタイルはモデルのようにスレンダーである。思わず「ここ、血ぃ採るんだよな」と滝沢が聞くと、「はい」と女から冷淡な返事が返ってきた。

「まぁ良い」細かいことを気にしている状況じゃない。そのまま中へと入って行った。

中に進むと、ほとんど同じような印象の白衣の女がいた。双子だろうか。こちらは受付担当のようだ。振り向くと、入口の女は姿を消していた。瞬間、寒気を感じたのは気のせいだったか。

「健康状態はいかがですか」
口調は丁寧だ。やはり別人か。
「あぁ、問題ない。健康だけが取り柄だからな」
滝沢が言うと、目の前の美女がフッと微笑んだ。
「じゃあこちらの内容をよく読んでいただいて、ご納得の上でサインをしてください」
女が言い、滝沢は黙ったままうなづいた。

活字が嫌いな滝沢は、とりあえず読んだフリだけして、誓約書の一番下に大嫌いな自分の名前を書き込んだ。

「書いたぞ」
「ありがとうございます。ちゃんと内容は理解していただけたんですよね」
念を押すように女が言う。
「大丈夫だ」
滝沢はぶっきらぼうに返した。
血を抜くわけだ、人によっては体調に影響が出ることもあるだろう。リスクヘッジの為の誓約書なんて読まなくたって、そんなもの大体何が書かれているかは想像できる。そう思っていた。
「ではこのまま進んでいただいて、上着や荷物を置いたらカーテンを開けて中にお入りください」
言われるがままに奥へ進む。

しかし献血なんて生まれて初めてのことだ。何の因果で空き巣の後に献血などしているのだろうか。悪行を失敗して、代わりに善行をするなんてな。まぁ良い、どうせ腐りきった血だ。ちょっとぐらい分けてやっても構いやしない。それで逃げ果せるならな。
思考を巡らせながら、滝沢はカーテンを開けた。

そこには椅子に腰掛けている、如何にも営業スマイルのような笑顔の胡散臭い医師と、その横には…また同じような容姿のナースが立っていた。間違いなく美人だし、どうしたって剥き出しの脚に目が行くが、良い加減薄気味が悪い。だが、少しでも時間は稼ぎたいところだ。

「どうされました?」
笑顔のまま、医師がそう言った。
「いや、なんでもない」
口に出してもしようがない。
「そちらの椅子にお座りください」
今度はナースが椅子を手で指し示しながら言った。声色や口調は3人とも微妙に異なる。やはり別人なのだろう。促されるまま、滝沢は椅子に座った。
「もう少し奥まで腰掛けていただいて、腕も肘掛けに置いてください」
そう医師に言われ、言われた通りに深く腰掛け両の腕を置いた。その刹那、カシャンカシャンと乾いた金属音が車内に鳴りびいた。気づいた時には両腕両足、そして腰が金具で完全に拘束されていた。
「おいっ、どういうことだよこれは。献血でこんな完全に体を固定するなんて聞いたことねーぞ」
滝沢の怒声が車内に響く。
「こうしないと、逃げようとする方もいらっしゃるので、仕方がないのです」
医師が笑顔のまま言った。
「だから献血でこんなことする必要あんのかって言ってんだよ」
「献血、ですか。献血なんて何処にも書いてないはずですが」
「はぁ?」
間の抜けた声をあげた滝沢だったが、確かに言われてみると、“献血”という言葉はバスに乗る前からこの椅子に座るまでの間、一度も目にしていなかったかも知れない。“血”という言葉と“白いバス”の2つから、先入観で献血だと思い込んでしまっていたのだ。
「じゃあなんなんだ一体、血を採るって入口の女が言ってたじゃねーか」
「はい、採らせていただきますよ」
「わけわかんねーな。じゃあさっさと済ませてくれよ」
滝沢が言うと、医師は「承知しました」と返えし、見たことのない太さの注射器を目の前に置いた。そして横にいたナースに「君、準備をしてください」と声を掛けた。
「おい、ちょっと待てよお前、どんだけ血ぃ抜くつもりだよ」
怒りに怯えが加わり、声が震えている。
「全部です」
「あぁ?」
思わず聞き返した。
「全部です、ぜ・ん・ぶ」
今度は耳元でナースが囁いた。どうやら聞き間違いではないようだ。
「質の悪い冗談はやめろ。血液全部抜いたら死ぬことぐらい、阿呆でもわかんだろ」
「冗談ではありませんよ。誓約書にもちゃんと書いてあったでしょう」
「誓約書…」
小声でクソッと呟き、ろくに読まずにサインをしたことを後悔していた。先入観でほとんど見もしなかったことを。
「サインしたからって、人を殺して良いわけがねえだろう」
滝沢が強い口調で言った。自分でも、よくそんな真っ当なことが言えたものだと呆れてながら。
「それはあなた方の国の法律ですから、私たちには関係ありません」
あなた方の国?コイツは何を言っているんだ。
「看板に私たちの国の国旗が描かれていたでしょう。このバス内は私たちの国なのです」
国旗。赤十字のマークにしちゃ違和感あるなと思ったアレか。いったい俺は悪い夢でも見ているのか。男の言っていることが、どんどん現実味を損なって行く。

滝沢は思考を巡らせ、なんとか逃げようと考えるが、体は完全に拘束されていて、少しの身動きも取れない。

「全部抜いて…俺の血をどうするんだ。お前らの国でも、輸血用の血液が不足してるってのか」
「違いますよ。我が国では富裕層の間で『人血健康法』が流行しているのです。飲むと肌ツヤが良くなり、血液もサラサラになり、免疫力を高め、ダイエット効果もあるのだそうですよ」
健康食品の話でもしているかのような口ぶりだ。だが今、医師が話しているのは、人の血の効能だ。
「幼子であるほど高値が付くのですが、アナタくらいでも、それなりの値段で売れるのです」
「ふざけたこと言ってんじゃねえ。そんなことしてバレないとでも思ってんのか。日本の警察は優秀なんだぞ」
どの口が言っているのか、滝沢は言いながら自嘲していた。
「ご存知ありませんか?この日本という国では、毎年8万人の行方不明者がいます。世界でも有数の平和国家である、日本でですよ。世界中の国々で言えば、考えられない数字になるのです」
何の話をされているのか、わけがわからなくなってきた。
「だから何なんだよ。俺もその一人になるってことかよ」
滝沢はもう抑制が利かなくなり、全力で怒鳴っていた。ここまで人に怒りを露わにしたのは何年ぶりだっただろうか。
「仰る通りです」
怒りの感情を無視し、男は端的に言った。滝沢は絶句した。何を言えば良いのか、もうわからなくなっていた。

「死んだらどうすんだ。火葬にでもしてくれんのか」
自分でも何を言っているのか、もうよくわからない。
「いえいえそんな殺すだなんて、そんなこと言ってませんよ。血液の代替品を流し込んで、我が国で生きて頂きます」
「血液の代替品?なんだよそれ」
「えぇ。我が国で製造している人工血液を流し込めば、今より健康的に生きることが出来ます。待遇も、全て保証されます」
「待遇って…」
「富裕層がスポンサーですから、死ぬまでVIP待遇です。広い庭付きの邸宅に、奴隷も一人付きます」
自分の置かれた状況の悲惨さと、VIP待遇という言葉を天秤に掛け、滝沢は一瞬心が揺らいだ。だが、やはりわけがわからない。これ以上話を聞いていると、頭がおかしくなりそうだ。

「もう良い、帰るからこれはずしてくれ」
滝沢が言った。
「何故ですか」
「何故?」
「死にたかったのではないのですか」
「あぁ?」
「アナタが死にたいと思ったから、我々に依頼が来たのです。死にたいのではないのですか」

死にたい。
確かに滝沢はそう思っていた。

空き巣はもう癖のようになってしまい、繰り返す度に自己嫌悪に陥っていた。好きでやっているわけじゃないし、好きでこんな人生を歩んでいるわけでもない。だが、金銭的な余裕が無くなると、無意識の内に獲物を物色するようになってしまった。

滝沢の人生の歯車がおかしくなり始めたのは、小学校6年生の時だった。

父が建築関係の会社の経営者だったから、家庭は比較的裕福な方だった。スポーツは得意だったし、成績も悪くなかった。父の方針で、小学校入学と同時に進学塾に通い始めた。5年生になり、塾で中学受験の話が出始めた矢先のこと、父から会社の資金繰りが危ういと話をされた。まだ小学生だった滝沢だけでなく、母親もその窮状を聞くのは初めてだった。

両親は、当時スナックで働いていた母に父が一目惚れをして、熱心に口説いて付き合い、そして結婚した。母は勉強もからっきしだったし、家事もまともにできなかった。容姿と明るい性格だけで上手く生きてこれたのだ。父はそれでも良いと思っていたし、母はいつも優しかったから、滝沢は高学年になるまで、特段疑問を持たずに育った。

父の話の後、会社が倒産するまでに大して時間は掛からなかった。既に一度不渡りを出していて、父が家族に話した時にはもう手遅れの状態だったのだ。そして6年生の時に両親は離婚。滝沢は母に引き取られることとなった。塾はやめざるを得ず、受験の話も無くなった。離婚の事もすぐに周囲にバレて、仲の良かった同級生も急によそよそしくなった。

小学校卒業と共に、知っている人がいない場所へ引っ越した。生活費を稼ぐために、母はまた夜の仕事をするようになった。それしか選択肢が無かったのだろう。必然的に、滝沢は一人で過ごす時間が増えた。母に「塾に通いたい?」と聞かれたことがあったが、そんな気持ちにはなれず断った。急激な変化する環境の中で、滝沢の心に出来た空洞は、少しずつ広がって行った。

その心の穴を埋めてくれる存在、それは友人たちだった。周りの大人から見れば不良と呼ばれる存在だが、自分と同じように家庭に問題を抱えていたり、もっと過酷な環境の者もいた。彼らといると、独りじゃないと思えた。他人を傷つけたり悪事を働くことに、始めは幾ばくかの抵抗感を抱いたけれど、それは回数をこなす内に薄れていき、徐々にスリルを楽しむようになっていた。それ以上に、自分にも居場所があるという事実が、滝沢を大いに安心させた。

何処かで抱え続けていた罪悪感も、母が知らない男を家に連れ込むようになったことで、すっかり消え去ってしまった。自分のことなどどうでも良くなったのだろうと思った。余計に家に居づらくなり、自然と夜遅くまで仲間とつるむことが増えていった。

何度も補導されたが、その度に母は「マサ君のこと信じてるから」と言うだけで、決して叱ることは一度もしなかった。その頃の滝沢には、母の言葉の意味が理解できなかった。何より、父の付けた正義という名前は、自分の人生の足枷でしかないと、腹立たさを感じるばかりだった。

高校は一応入学したが中退し、不良仲間に紹介してもらって客引きのバイトを始めた。ここでは母譲りのコミュニケーション能力の高さが発揮され、すぐに一般的な社会人並みの収入を得ることができるようになった。18歳になり、家を出て一人暮らしを始めた。その後もキャバクラで黒服をやったり、知り合いの店でバーテンをやったり、一人で生活するには十分な収入を得ていた。だが一方で、仲間に誘われて始めた麻雀やパチンコに熱中してしまい、収入の大半を浪費するようになる。そしていつしか生活が苦しくなり、消費者金融で借金をするようになった。始めは返済と借り入れを繰り返していたが、それもだんだん追いつかなくなり、気がつけば借金は100万を超えていた。

さすがにまずいと思い始めた頃、知り合いから「手伝うだけだから」と頼まれ、初めて空き巣に関わった。その時滝沢が請け負ったのは見張りと運転だけだったが、今までとは一段違う、明確に犯罪に手を染めたという感覚に恐れを抱き、運転する手が震えた。落ちるところまで落ちたという自覚もあった。同時に、10分足らずの時間で、こんなにもあっさり成功するのだという印象も強く残った。

それからしばらくして、また金に困った時、一人で空き巣を実行した。ここなら簡単そうだと以前から目星を付けていた家だった。結果は成功。それ以来、金に困ると空き巣を繰り返した。同じエリアは避け、下調べは入念にする。計画から実行まで全て一人で行い、短期間に繰り返すことはしない。結果、これまで一度も怪しまれることは無かった。

しかし成功する都度、滝沢が手にしたのは、多少の収入と、自身への嫌悪感だった。こんなクソみたいな人生、さっさと終わらせたい。何度もそう思った。自殺の方法も調べた。けれど、それを実行に移す覚悟も勇気もない。できることなら誰か俺の人生を終わらせてくれ。それすらも他力本願な自分に対し、ことさら嫌悪感を募らせるばかりだった。そんな時、どうしても思い出すのは幸せだった幼少期だ。父は厳しくても尊敬していたし、母はいつも優しかった。父のせいとは思いたくないが、やはり会社を倒産させてしまった事実を未だに恨めしく思う。それさえ無ければ、きっと自分の人生も違ったはずだ。もっと真っ当な人生を歩んでいたはずだ。そう思わずにはいられなかった。

「滝沢さーん」
緊張感の感じられないナースの声で、現実に引き戻された。
「死にたいんですかぁ?死にたくないんですかぁ?」
ふざけやがって。
「死にたくなんかねぇよ」
滝沢が絞り出すように言った。
「すみません、ちょっと声が小さくて聞き取りづらいのですが」
医師が笑顔を崩さずに言った。
「だから死にたくねぇって…、俺は死にたくなんかねぇ」
今度は絶叫するように言った。滝沢の目には涙が浮かんでいる。
「でも、死にたいって思われてましたよね」
医師が笑顔を消して言った。
「あぁ、確かに思ってたよ。俺みたいなクズが生きてたって仕方ねえからな。人様に迷惑かけるばかりだしよ」
「じゃあ良いじゃないですか」
「いや、もう一度やり直したいんだ。自分勝手なのはわかってる。もちろん罪は償った上でだ。このまま終わりたくねえんだよ。だから、俺は今ここで、死ぬわけにはいかない」
「…そうですか。承知致しました」
男が言った。
「承知?どういうことだよ」
「アナタのように寿命を多く残したまま、自ら命を絶つ方がなかなか減らないんです。政治家と言われる者達はポーズとしての啓蒙活動しかしない。一部非営利の組織も活動しているようですが、上に立つ人間は損得勘定で考えるから、結局社会全体には浸透していません。営利組織であればなおさらです。我々の依頼主も、そんな状況にほとほと困り果てているのです」
「なんだかよくわからねーな」
「アナタのように『本当は死にたくない』と思っているのに、一時の心の揺らぎで自死を選択する方を、一人でも減らすことが我々に課せられたミッションです」
「じゃあ…、俺は死ななくて良いんだな」
「殺すなんて一言も言ってないんですがねぇ」
「俺にはやらなきゃいけないことがあるんだ。ここから出してくれ」
「アナタがソレを望むなら」
医師がそう言うと、状況を察したナースが椅子の金具を解除し、滝沢は退出を促された。二人共、心なしか自然な笑顔だったような気がした。あるいはそれは、勝手な思い違いなのかも知れないが。

バスを降りると、駅周辺の商業ビルの、煌々と街を照らすケバケバしいネオンに迎えられた。スマートフォンの時計は、バスに乗り込んだ時刻からほとんど進んでいない。あれほど時間の流れを遅く感じたのは、生まれて初めてかも知れない。滝沢は側のガードレールに寄りかかり、電話をかけた。

「あらマサ君、自分から電話してきてくれるなんて珍しいじゃない。嬉しいなぁ」
久しぶりに聞く母の声に、滝沢は泣きそうなのを堪え、話し始めた。
「ちょっと話したいことがあって」
「うん、なーに」
「あのさ、俺、これから警察に自首しに行ってくる」
突然の息子からの告白に一瞬言葉を失い、沈黙の時間が流れた。
そして滝沢は、自分のやってきたことを全て、包み隠さずに話した。
「母さん、ごめん」
声を震わせながら滝沢が言った。母に素直に謝るなんて、小学生の頃以来だった。
「うん、わかったわ。全部話してくれてありがとね。たくさんの人に迷惑かけたんだから、ちゃんと罪は償わないとね。でも、自分から警察に行く覚悟を決めたのは、お母さん偉いと思う。アタシも、ついて行っても良い?」
「それは良いよ。俺ももう30歳になるし、中学生の頃とは違うからさ。もう子どもじゃない」
「アタシにとっては、マサ君はずっと子どもなのよ」
母のその言葉に、堪えていた涙が溢れ出した。
「母さん、再婚してんだろ。別に子ども、いるんじゃないのか」
ずっと気になっていたことだった。
「再婚なんてしてないわよ。マサ君いなくなってから、ずっと一人で寂しく生活しているの」
母は冗談めかして言ったが、滝沢はショックを受けていた。きっと新しい男と結婚して、子どもを作って幸せな生活をしてるのだと、勝手に思い込んでいたから。そして、自分はその邪魔にしかならないと、そう思っていたから。

父と離婚した後、確かに別の男と付き合ったことはあった。でも、それも滝沢のことを思ってのこと。夜の仕事だと一緒にいる時間がほとんど作れないし、周りからも良く思われない。生活は安定しないし、塾に通わせてやることもできない。自分一人では足りないことばかりだ。そんな思いから再婚相手を探そうと思ったが、滝沢がそれを望んでいないと感じてやめた。悪い友人たちと付き合い始めたり、補導されることがあっても、本当は叱ってあげた方が良いのかも知れないという葛藤はありながらも、自分にそれをする資格は無いと思った。「信じてる」という言葉は、今思うと親としての責任から逃げていたのだと思う。その言葉で正当化したかったのだと思う。そう話しながら、母も泣いていた。

「なんか俺、本当にバカだよな。全然母さんのこと信じてなかった」
「マサ君のせいじゃ無いのよ。アタシが頭が悪いし何もできないから、ちゃんと母親らしくできなかったから。…だからマサ君は悪くないの」
「ごめん、本当にごめん」
滝沢は人目を憚らず、声を出して泣いていた。

「マサ君、あのね」
「うん?」
「お父さんがね、戻って来ないかって言ってくれてるの」
「どういうこと?」
「一回倒産して自己破産したけど、もう一度会社を作って、軌道に乗り始めたらしいの。アタシは難しいことはわからないけど、信じて良いと思ってる」
滝沢も、一緒に暮らしていた頃の父に悪い印象はない。ただ、離婚した後一度も会うことをしてくれなかったことに対して、理解はできなかった。結果として心に穴を開けた、その大きな要因となったことは間違いない。
「もし許してもらえるなら、マサ君とも会いたいって。昔みたいに三人で会いたいって言ってる」
「こんな俺に、会いたくなんてないんじゃないかな。別に暮らすようになってから、会おうとしなかったくらいだろ」
「お父さん頑固だから、ずっと我慢してたのよ。離婚だってアタシは望んでなかったけど、迷惑かけるからって。お父さん、マサ君に会って謝りたいって言ってるのよ。だから許してあげてほしいの。ね、また三人でやり直しましょう」
「うん、わかったよ。でも、これから警察行くから、しばらく時間かかるかも知れない」
「大丈夫、二人で待ってるから。マサ君が安心して帰って来れるように、二人で待ってる」
「あぁ、母さん、本当にありがとう」

俯いていた滝沢が顔を上げると、さっきまで停まっていたはずの白いバスは消えていた。まるで始めから存在しなかったかのようだった。
あの薄気味悪い医師とナースに礼を言いたい気分だったが、どうやらそれは叶わないようだ。
さぁ、交番へ行くとしよう。

安易に「死にたい」なんて考えていると、あの白いバスが、アナタの前にも現れるかも知れない。


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