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東大の文化人類学者、アメ横の人になる

武蔵野美術大学大学院造形構想研究科クリエイティブリーダーシップコースクリエイティブリーダーシップ特論 アメ横 呑める魚屋「魚草」 代表 大橋磨州さん

2020年7月6日(月)、アメ横で呑める魚屋「魚草(うおくさ)」を営む大橋磨州さんのお話を伺った。この回は、大橋さんのプロフィールをご紹介いただいた時点で、すでにワクワクした。

アメ横のフィールドワーカー 大橋磨州さん

・東京大学文化人類学 大学院中退。 
・修士論文のフィールドワークでアメ横に入り、その魅力に魅了され、中退。
・アメ横の魚屋で修行を積み。アメ横最初の「飲める魚屋、魚草」創業。

東大の大学院という学歴エリートがアメ横の魚屋である。文化人類学好きの僕としては、大橋さんという人のものの見方や価値観に興味をもった。
お話の内容は、主に「アメ横」というフィールドについてだった。アメ横の歴史、特異性、そこで生活する人の実態、商売の仕方を、大橋さんの視点で語っていただいた。ご本人はあまり語られなかったが、大橋さんの視点は、文化人類学的、あるいは社会学的視点だなあ、と思った。

まず、大橋さんが語るアメ横の概要は、だいたい以下の通りである。おおよそイメージ通りであった。

1.東京の北の玄関口、もともと寛永寺のお膝元として発展。
2.築地で取り扱えない行き場のない海産品がたどり着く。
3.よそでは働けない/働く場所のない人が来るところ。
4.懐が深く、人と人との距離が近い反面、非干渉というか人間関係が非常にさっぱりしている。例えばアメ横のある店で働いていた人が、やめた翌日から斜向かいの店で働き始める、ということも日常的にある。

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都会的ではもちろんないけれど、人情に厚いイメージのいわゆる下町とは違う。近所コミュニティ色が強い地方都市とも違う。(僕の感覚では、アジアの都市に近い印象だ。アメ横の混然とした感じは、台湾やバンコクなどのマーケットを想起させる。)

中の視点、外の視点

上記のようなフィールドとしてのアメ横の観察が「さすがだなあ」と思う。特に4点目は、外部から見ているだけだと分からない視点である。

本当のフィールドワークとは、その集団の人と同化することだと思う。その結果として(実際に大学を辞めるかはともかく)フィールドに魅せられて、離れられなくなる、というのは理解できる話である。
僕が好きな文化人類学者の松村圭一郎さん(岡山大学教授)は、大学3回生の時にたまたまエチオピアに行ったら、その場所の生活や習慣、文化に取り憑かれて「20年間あまりエチオピアの村に通い続けている」と言う。他にも、フィールワークを積極的に行なっている社会学者の岸政彦さん(立命館大学教授)も、大学院時代から「沖縄」という地域をテーマにしているそうである。
そういうものなんだと思う。知的好奇心もあると思うが、個人的には「身体がそこに反応している」という感覚なんじゃないか、と思う。これについては最後に少し述べたい。

大橋さんの話を聞いて、改めて参与観察やエスノグラフィーの魅力と意義を感じた。つまり地域デザインや地域の活性化を考える時、フィールドの中で行われいてることを理解せずに、一般論やマジョリティのルールを適用させようとしてもうまくいかない、ということである。
上述した社会学者の岸さんも言っていることが、外からは混沌、不合理に見える中の人の行動原理やルールには、そこで生きるための合理的理由がある。その仕組みを改善しようと思ったら、中の人の視点を理解していないとできないだろう。
一方で、中のルールや合理性を、客観的に捉えることはフィールドの外からの視点を持った人にしかできないことである。その外の視点も持っているからこそ、大橋さんは
「アメ横で今のまま働き続けていても、アメ横の水産業には先がないと思った。アメ横の存在自体が水産業の未来に歯止めをかけている。 取引先の水産業者(生産者)がどんどん潰れていく。そういう形でしか産地と関われていない。だから僕はもっと、生産者の力になるような関わり方がしたかった。」
と考えることができたのだろう。
大橋さんには、ぜひ「アメ横」をテーマにした本を出して欲しいと思った。きっとそれは外の視点と中の視点、両方を持った大橋さんにしか書けないものになるだろう。

中の人になるために

さて、大橋さんの視点で、もう一つとても共感できるものがあった。それは接客において「自分」を商品にするべきではない、ということである。

アメ横の飲食店はお客さんとの距離が近いそうである。接客のマニュアルもない。大橋さんのお店で働いていたスタッフも「こんなに人と近い距離で働ける場所はなかった」と言っていたそうだ。自然とスタッフとお客という関係が崩れやすくなる。簡単にいうと「仲良くなる」ということであり、パブリックとプライベートの境界が曖昧になるということである。
大橋さんは、プライベートな関係になることを商売の戦略にしてはいけない、という。プライベートな関係になるということは、「自分のプライベート切り売りする」ということである。それでは本当に「呑める魚屋」で商売していることにはならない。プライベートを切り売りするなら、新たに一つでも魚のことを覚えるて、それを伝えるべきである、という。

僕は大橋さんの言葉の行間に「それでは本当にアメ横にいる意味がない」という思いを読み取った。先ほどの「外」と「内」の話でいうと、一見お客さんと親しくなったので「内」に入ったような感覚を覚えるが、それは「外」の人として親しくなったということで、「内側」に入ることにはならない。アメ横の人になるためには、アメ横での商売そのものを通じてアメ横のことが分からないいけない。そういうことを身を持って知っているのではないか、と思うのだ。

身体の反応を信じて

最後に大橋さんの経歴からもう一つトピックを拾いたい。それは身体性を大事にしていることである。高校〜大学を通して演劇に打ち込んでいたこと、そして土方巽の舞踏に熱中していたことから、「身体」の反応に関してすごく敏感で正直なのではないかと考えた。(僕は土方巽の舞踏にそれほど詳しいわけではないが、そのパフォーマンスをみると純粋に「身体って美しいな」と思う)

先に述べたフィールドワーカーがそのフィールドに魅せられた時、「身体がそこに反応している」のではないか、と述べた。大橋さんの行動はまさに「身体」に導かれている感じがするのである。なぜ、東大の大学院というアカデミックの最高峰にいながら、それを捨てる決断ができたのか。それは口で説明する合理的な理由では足らず、純粋に身体が反応し、その反応を大事にしたからなのではないだろうか。

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