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SHISEIDO ルージュ・ルージュBR322、あるいは虚構の呪力について

高い口紅を買った。

SHISEIDOのルージュ・ルージュ、Amber Afternoonとかいう洒落た名前の、茶色がかったピンク色の口紅。黒くなめらかに光る陶器のようなケースで、持ってみると重く、ひんやりする。蓋が磁石で留めてあり、開け閉めするときの感触と、ぱちんという音が心地よく、なるほど高級化粧品は音まで良いのかと感心する。大人っぽいくすんだ色で、似合わないけど気に入っている。ちなみに4000円くらいした。普段薬局の800円の化粧道具で事足りている私にとってはけっこう高い買い物だ。

 これはデパート一階などの化粧品売り場で売られている、いわゆるデパコスと呼ばれるものだ。

デパートの化粧品売り場、そこは美しさがあらゆる価値の頂点に置かれる場所である。
口角が攣るんじゃないかと心配になるような笑顔でハイヒールを鳴らし忙しく立ち回る美容部員、ぴかぴかした店内、物憂げにこちらを見つめる西洋人モデルの広告、そのすべてが、「美しさのためにお金を使いなさい!」と訴えてくる。”一人前の大人の女性”として、それを嫌がるのは恐ろしく恥ずかしいことなのだ。その世界のなかでは。

化粧品ブランドというのは当然ながらそれぞれのブランド・イメージがある。製品の広告、起用モデル、売り場の雰囲気やパッケージデザイン、ネーミング等々によって統一した世界観が構築されており、それはカワイイ系/セクシー系といった単純なカテゴライズではない。購買ターゲットの憧れる姿を、生き方をも含めて示すものだ。
例えばSUQQUはミニマリスト志向で、上質なものを選ぶセンスのある大人の女性、NARSはモードでアーティステック、周りに媚びない自由な女性。SHISEIDOは思慮深く、自分の足で人生を歩む凛とした女性のイメージがある。らしい。売り場の美容部員もそういったイメージに合わせて選定しているのか、M.A.Cの美容部員はギャルっぽい女性が多く、美意識の低さを見せたら殴られそうなので近づいたことがない。

だから私たちは、その化粧品を購入することで、その姿に一歩近づけたような、その世界観とつながったような気持ちになるのだ。
私たちは製品そのものではなく、ブランド・イメージとの接続にお金を払っているといえるかもしれない。

そして無論、それは、虚構である。

そのブランド・イメージは、
モノが溢れた化粧品市場で、ほとんど性能の変わらない製品たちをなんとか売りつけるために、どっかの広告代理店の口髭オールバッククリエイティブ野郎が構築した世界観である。それはもう資本主義ズブズブの。
彼らに私たちは脅迫され、欲望を掻き立てられ、無用な消費に躍らされているわけである。

下らないよね。
そんな虚構に振り回されるのは愚かだよね。

でも、でも…と、口ごもりつつも、私は言いたい。
そのブランド・イメージを下らぬ虚構だと排除し、口紅は唇を着色するための道具でしかないと断ずる生き方が、正しく豊かなものなのだろうか?

ひんやりしたケースをぱちんと開いてSHISEIDOの口紅をさすと気持ちがしゃんとする。自分に自信がつく、ような気がして背筋が伸びる。800円の口紅ではそういう気分にはならない。

それは虚構の力だ。ありがたいことだと思う。

自分だけにかけることのできる呪術。
みんな、そういう虚構の呪術、あるいは物語と接続することによって、自分の人生を演出して、生きる力を得ているのではないか? それはいわゆる「ブランド物」に限った話ではない。

ファッションも、食べ物も、娯楽も、虚構の呪力を纏っている。
どんなものを着るか、どんなものを食べ、どんな音楽を聴きどんな映画を観るのか、選んだもののイメージの力によって私たちは自分の世界観を演出し続ける。他人に対してだけでなく、自分自身に対しても。いわゆる「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」という状態だ。演出することが目的ではないと思っていても、生きているうえでその呪術を全く使わないというのは難しい。「選ばない」ことによってすらその呪術は発動してしまう(例えば一時流行ったミニマリストが、「物を持たない」という選択によって自身の世界観を演出しているように)。

 考えてみると気持ち悪いけれど、そこから逃げ続けることは苦しい。だって私たちの認識しているもののほとんどは虚構だから。家族も、宗教も、道徳も、幸福も、ブランドバッグと大差ない。

そういう、自明であるかのごとく振る舞う虚構を、私たちは暴いていかなければならないんだけれども、
でもそのうえで私たちはその呪術を、ある程度認めていいし、それを自分が生きていくために運用していくべきなんじゃないか。

 なぜなら虚構を否定したあとに私たちが生み出す価値もまた虚構だからだ。知性によって虚構を打ち砕いていけば、本物の景色が開かれるわけじゃない。ちがう。真実にたどり着けるなんてそれこそ虚構だ。私たちは虚構からぬけ出すことはできない。できるのは意味づけをすることだけ。それでいいじゃないか。私たちはより良く生きるために虚構を運用、または新しく構築していけばいいのだ。

もちろんそれは注意深く運用される必要がある。
私の友人の勤めている商社では、化粧をしないこと、ヒールを履かないこと、つまり「女をサボる」ことは万死に値するみっともないことなのだそうだが、他人に虚構を押し付けてマウンティングの基準にするのは暴力だ。自分が大切にする物語は、他人にとっては何の価値もないことを忘れてはいけない。特定の物語のもとに隊列を組ませてはいけない。その虚構に呑み込まれて自分が苦しくなってほしくもない。常に異なるものに対して開かれているべきで、その虚構を手放したいと思ったとき、ストレスなく手放せる社会であるべきだ。

この口紅は、私だけの呪術アイテムである。自分の物語を演出するための。

私はその虚構を、けっこう愛おしく感じるのだ。


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火曜担当佐竹の初noteでした。

最初はコルクラボに入ったきっかけとかを書こうかなと思っていたのですが、先日の飲み会でサディが「別にコルクラボに関係あることじゃなくてもいいよ」と言っていたのもあり、
文脈をガン無視した文章を載せさせていただきました。
今後好きな本や映画とか、旅行とかについて書いていこうかなと思います。24年間ずっと距離を置いて生きてきた〈コミュニティ〉についても。

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