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肌荒れしなくちゃ旅じゃない


身体側面へのものすごい衝撃で跳び起きた。ベットに接した薄い壁ごしに、何者かがタックルを繰り返している。ほとんどトタンをたてかけただけの小屋が大きく揺れる。ふんわり漂う獣のにおい。

「メエ~~~~~」

なんだヤギか、びっくりした……。

トタンの隙間から強い光が差し込んでいて、もう昼近いのだとわかった。私は寝返りをうってスマホをいじり始めた。が、昨日に引き続きwifiはほとんど使い物にならない。これでFREEwifiって詐欺だよな……。一泊200ルピー、約400円。南インドの田舎、このゲストハウスの敷地内にある小屋のドミトリーに、私は一週間近く滞在していた。敷地内には野生のヤギが好き勝手に出入りしていて、朝になると小屋のまわりに集まってくるのだ。ヤギは「ドミでダラダラすんな、ちゃんと観光しろ」と私を責め立てるようにタックルを繰り返している。わかったわかった、もう起きるからとひとりごちてベッドから起き上がる。
着替えや洗面用具を持って、外に設置されているシャワー室に入る。シャワー室の電気が切れていて、昨夜は入れなかったのだ。壁に虫が這っているのにも、インドの水道水の鉄っぽいへんな匂いにも慣れた。太陽の光のなかで、自分の身体をまじまじと見つめる。腕の裏側にぽつぽつと赤い斑点が出来ている。ベッドのマットレスに南京虫がいるのかもしれない。足の爪の間に黒い土が詰まっている。腕や脚は全体的に肌荒れ気味でカサカサになっている。強い日差しのなか、砂埃を一日中浴びて、鉄の匂いのする水で洗っていればこうなるか……。しかし、うら若い20歳の女がこんな場所で一人何をやっているんだろう。他のみんなは彼氏と旅行に行ったり、小洒落た食べ物の写真をTwitterにあげて10いいねもらったりしてるというのに。あ~千疋屋の桃パフェ食べたい。でも私にとっては、一か月インドを旅行することが最もやりたかったことなのだ。私は自分の荒れた肌を優しく撫でた。

シャワーを浴びて、服を着て、日焼け止めを塗って外に出た。通りにはあらゆる匂いが充満している。リクシャの排気ガスの匂い、牛の糞の匂い、公衆便所の匂い、スパイスの匂い、チャイ屋の甘い匂い。通りの露店に人が集まっているので、私もそこで朝ご飯を食べることにした。一人で手でカレーを食べる東洋人の女を、みんな無遠慮にじろじろ眺めてくる。
いったい何が楽しいのかと思うかもしれない。自分でもたまにそう思う。でも多分私は、自分の身体より外側がぜんぶ他者で、慣れない匂いにくらくらする、という状況が楽しいのかもしれない。それは日本ではなかなかできないことだから。


日本にいるとき私は、自分というものの境界がわからなくなる。
私たちは、たくさんのモノや空間とともに生きている。部屋には今まで集めてきた何十着もの服があり、何百冊もの本があり、冷蔵庫には好みにあわせた調味料が並んでいる(薄口だし醤油、カロリーハーフのマヨネーズ、ちょい高いゆず胡椒)。毎日通い慣れた道も、会社のデスクも、行きつけのカフェも、まるで自分の身体の一部のように、しっくりと肌になじんでいる。その空間とモノという舞台装置があってこそ、私たちは「暮らし」ができる。
周りにいる人たちもまた自分の延長である。会社での役割や立ち位置、仲良しグループ内のキャラ、恋人にしか見せない顔。そういう、人との関係性とか、文脈によって、自分のふるまいが形作られる。
それはすごく心地の良い世界だ。私の肌は境界があいまいになって、外部にゆるゆるとつながっている。身体のまわりに、自分の匂いの染みついた毛布みたいなものが広がっていて、私たちはその毛布ごと「自分」を生きている。

一人で異国へ行くと、その毛布が剥ぎ取られる。私の肌はむき出しになる。皮一枚隔てた外はすべて異臭のする他者である。朝から晩まで鳴り続けるクラクション、飛び交う異国語、全部マサラの味がする食べ物、無遠慮に呼びかけてくる客引きの声。それらが私の肌を刺激して、肌はどんどん荒れていく。でもそれがたまらない。身体の輪郭がはっきりしてきて、胸がドキドキする。自分とはこの身体なのだ、とわかる。寺院にあふれかえるお香の匂いが鼻の奥に広がる感じ、素足で寺院を歩く時の、石畳の熱さ。夜行列車の寝台でガタゴト揺られながら眠りにつき、朝、窓の外をぼんやり眺めながら、甘いチャイをすする。日本での心地よい「暮らし」のなかに埋もれた感覚がざわざわと呼び覚まされる。むき出しの肌で他者を感じることができる。その肌のざらつきを確認するために、私はきっとまた旅に出る。

#旅行 #エッセイ

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