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存在の耐えられない軽さ

私は小学校の図書室で、業間休みに本を読んでいる。
今日も授業が終わったら、私をいじめている女の子と一緒に帰らなくてはならない。それが怖くて、本を読んでいる。その小学二年生の女の子が、今も自分のなかにいる。
他者と全的にかかわりあうことが難しくて、苦しくて、自分が他者によって侵害されるとき、自分の輪郭を必死に取り戻すために、本を読んでいた。作品世界と心が通じあったとき、自分が自分としてたしかに存在していると感じた。
自分をさらけだすのは難しいけれど、これからはもっと、人と深いかかわりを築いていきたい。 
と、終わればコルクラボ的におさまりがよいのだが、これは心の底からの本音ではない。正直、こういうワークショップとか、 ”さらけだし”とか、今ここを包み込んでいるあたたかな空気感が、苦手だ。
私は他者と通じあうことを、実は本当に必要としていないのではないか。そういう気持ちもちゃんとあるぞと思いたいだけなんじゃないか。まさかそんなことはないと思うが、私はそれが、ひどく怖い。


これは先週末、コルクラボ主催の合宿で、山田ズーニーさんの文章表現ワークショップにて私が作成した「自己紹介文」である。
一日目、「自分の想いを言葉にする」というテーマで、人と対話をしながら自分の奥底にある根本思想を探り出し、短い文章を書いてみんなの前で読み上げた。
私は文章を書く前の対話が終わった時点で、この自己表現を、「これからはもっと人と深いかかわりを築いていきたい。」で結論付けようと思っていた。そうしたかった。しかし、どうも「これは私の心の底からの本音」ではないようだった。ズーニーさんの「自分の根本思想に嘘だけはつくな」という言葉が響いた。そーっと心の底をのぞいてみると、そこには「つーか何この感じ?スピリチュアルセミナーかよ 気持ち悪いんだけど」と腹をボリボリ掻いている自分がいた。
そして、どうやら本当に自分は人と深くつながるあたたかな集団体験が苦手で、それこそが素直な私であるらしい、という結論に達した。

もっと踏み込んで言う。私はそもそもコルクラボのあたたかく愛に溢れた健全な空気感が苦手である。肌に合わない。
ということを、みなさんと大いなる愛と知性を信頼して告白する。

みんなと話していると本当に楽しいし好きなんだけど、特に合宿の深夜小声カラオケとかごりごりに楽しかったんだけどなんだろう、コミュニティ全体が醸し出す感じにどうしてもノれない。

私は、愛に応えられない。

こういう感覚を、人生を通して抱き続けてきた。

イベント後タイムラインに横溢する「ありがとう」というワード、仲間と流す感動の涙 、マイナビバイトのみんなで肩組んで笑ってる居酒屋店員の写真(アットホームな職場です♪)、集合写真で最前列に寝っ転がってピースしてる奴。世界は愛であふれている。
そういうのがどうもダメだ。

そういう感覚は別に珍しくないと思うし、それは単にそのグループのノリが自分に合わないからだと思っていた。自分はまあ多少変わっているほうだし、合うタイプがなかなかいないんだなあと。
でも、どんなに気の合う人を見つけても私は人付き合い全般に淡白で、友達は好きだけど、寂しいとか、どうしても会いたいという感覚にはほとんどなったことがない(「寂しい」と言う女の子はかわいくて羨ましい)。
どうやら私は好きな人たちに対してもみんなほど求めることができないみたいだった。深く踏み込まれすぎると後ずさりしてしまう自分に気付いた。ちなみにその傾向は対個人より対コミュニティにおいて特に強い。

これはおかしい。すると自分はひねくれた人間で、素直に心を開いて他者を求めることができないのかもしれない。私は他と違うんだ的な自意識が小さなプライドを守っていて、だから他人に素直になれないんだ、そうに違いない。
いつか自分に合う共同体を見つけて、そこで素直になれば、自分の本当の心をさらけだせば、その愛になじむことができる。それができないのは自分が素直になれないからで、はやく素直になりたかった。
一方でそんなことをするくらいなら一生ひねくれたままでいいという気持ちもあった。 ニコニコ笑顔でみんな楽しいねに充足することは今の自分を虐殺することだ。それはできなかった。それでも、自分を虐殺してでも、そういう満ち足りた世界に憧れた。いつ、私は素直になることができる?

愛は尊い。暴力的に。愛というものの恐るべき正しさはそれに同調しない者を断罪する。軽薄だと非難する。
愛の重さは正しく、軽さは不誠実だ。私は自分の軽さに絶望した。しかし〈軽さ〉に絶望することが許されるだろうか? いつだって人が思い悩むのは〈重さ〉、愛や責任や宿命に対してである。軽さに思い悩む人間の顔がどうして深刻でありえよう? 私は重さにひどく憧れた。

愛は絶対的価値だ。それが少ないのは素直になっていないか、人間性が終わっているかのどちらかだ。後者だとはさすがに思いたくなかった。自分はみんなと同じくらいに愛を求めることもできない。ということは実は、自分の愛情はすべていつわりなのではないか。倫理的にさすがにまずいだろうということで、愛情があると思っているだけなんじゃないか。私には人を愛す能力が本質的に欠落しているのではないか。
そんな囁きを背後に感じた。

一人で生きていくことなんてできない。私は他者とのつながりを求めているし、人を好きという感情はたしかに存在しているのに。友達と一緒にいると楽しいこと、恋人をただ一人の特別な存在としてかえがえなく好きだったこと、すべて本当であるはずなのに、なぜ、なぜ、いつも後ろめたいのか。
これこそが、私の〈存在の耐えられない軽さ〉であった。


ワークショップで冒頭の文章を読み上げたあと、ゆうさん (@usksuzuki) が、私には「愛着回避型」の傾向があるのではないかと教えてくれた。
対人関係の基盤となる「愛着スタイル」は、「安定型」「回避型」「不安型」「混乱型」の四つに分類される。
この心理学的傾向についてじっくり説明するのは、今は気持ちが急いているためまた今度にしたいが、簡単に説明する。
「安定型」は健全に大きな愛を与え受け入れることができるマジョリティ。「不安型」は相手からの愛を不安になって求めるメンヘラタイプ。
そして「回避型」というのは愛情が薄く、人と親密になることを避け、他者からの強い愛着を感じるとそこから距離を置こうとしてしまう。20%の割合で存在するらしく、診断テストを受けたら「回避安定型」(回避型だが適応力があるタイプ)だった。
回避型は幼少期に養育者から適切な愛情を受けなかったせいで愛情をどう受け入れていいかわからず回避してしまうらしいが、私は人並みの愛情はちゃんと受けてきたと思う。また、自己肯定感や生きる意欲が低いことが多いが私はむしろ高い。ので、本に書いてある回避型の性質がどこまで自分にあてはまっているかはわからないが、とにかく自分はもともと愛着が薄いタイプであるらしかった。

私は、落胆し、そして大きく安心した。

自分は他人との過度なかかわりが本質的に苦手なのだ。
私の中にもみんなと同じ大きな愛が眠っていると期待していたけど、残念ながら今は違うらしい。
それでも、自分の愛情は、0ではない。いつわりではないのだ、少なくとも。愛はみんな100あるものだと思っていたから、それに足りないということは0なんじゃないかと思ってたけど、80は本物らしい、その安心のほうが大きかった。私は私に諦めがついた。それでも人を愛することは諦めなくても良いのだと思った。
ゆうさんは、人は生存本能として人とつながることを求めているから愛がないということはない、ただ愛の伝え方と受け入れ方に工夫がいるということ、そして人とのかかわりによって回避から安定に少しずつ変わっていく人もいることを教えてくれた。

私は、誰かにどうしようもなく会いたくなって夜の街を走ることができない。
ツイッターで「みんなありがとう!」って投稿するのも、多分できない。
それでも、人とつながっていたい。

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