
#9 眼(目)
しかし、ぼくはカテドラルよりは人びとの眼を描きたい。カテドラルがいかに荘厳で、圧倒するような印象を与えようと、そこにはない何かが人間の眼にはあるからだ。一人の人間-それが哀れなルンペンであろうと、夜の女であろうと-の魂はぼくの眼にはもっと興味深いものなのだ。
しばらく前のある日、日頃からよく立寄る仕事場近くのカフェで注文の列に並ぼうとしていると、顔見知りのお店スタッフさんが勤務中だったことに気がついた。接客サービスの仕事の大変さは、体がいくつあっても足りないほど忙しい状況でも、明るい笑顔と礼儀正しくていねいな言葉使い、顧客に対するきめ細やかな配慮といった対人社交スキルを発揮し、「感じの良さ」を常日頃から期待されるところだろう。その知人も例外ではなく、忙しくてきぱき立ち回りながらもほがらかな笑顔で接客に励んでいた。
数時間後、用事を済ませて仕事場へ戻ろうとしていた途中、突然声を掛けられたので振り向くと、さきほどの知人が別の飲食店の店先のテーブルから私に向かって手を振っていたのだった。遅い昼休中という知人の顔には、先ほどの仕事中同様にこやかな笑みが浮んでいた。けれども、その笑顔は文字通り満面の笑みといった自然体のそれだったのに比べて、数時間前に見かけた笑顔は少し違った印象のものだった。
「こんにちは。さっき(お店に)寄ったんだけどすごい混みようだったから途中でやめちゃった。」
「あ、ごめんなさい。そうなんです。今日は変な時間帯でいつもより人が多くて大変でした。」
「でしょうね。さっきお店でちらっと見た時は眼笑ってなかったから。」
「え~見てました?やっぱり。結構パニックだったかも」と今度は苦笑。
この「眼(目)が笑っていない」は、私たちがしばしば見せる顔の表情のひとつだ。人間の顔には多くの表情筋といわれる筋肉があり、これの無意識的で複雑な働きがさまざまな表情をつくり出す。表情筋は口元に多いとされるが当然目の周辺にもある。たとえば私たちが心から喜びを感じたり、可笑しいと思うときの笑いは、口元の表情筋に加えて「目を細める」「目じりを下げる」などといった目の周辺の筋肉も自然に連動して働くことで、いわば心の底からの「本当の」笑顔ができあがる。
ところが、精神的に笑える状況にはない時に意識して笑顔をつくろうとすると、私たちの表情筋のメカニックは思ったようにスムーズに働いてくれない。目元の筋肉との連動は制止され、どことなく不自然で硬い表情の「偽りの」笑顔、つまりは「眼が笑っていない」表情をつくり出すのだ(もちろん両者にほとんど区別がつかないなど個体差は当然にある)。
逆に考えれば、眼(目)は私たちの表情づくりには決定的に重要なものでもあるということだ。まさに「目は口ほどにものを言い」、「目にもの言わせる」力があると思わせるのだ。
私たち人間はさまざまな意思疎通手段を持っている。言葉や読み書きといった言語コミュニケーションの発達が、人類の驚異的な知の飛躍に圧倒的な貢献してきたことには疑いがない。けれどもその歴史は人類史のなかではほんの一コマ、驚くほど短い。むしろ身振りや手振り、動作・仕草、言葉にならない発声といった非言語的意思伝達手段のほうが圧倒的に長い歴史がある。それらの手段のほうが使いなれた馴染みある道具なのだ。そして顔表情はそうした長い歴史を持つ道具のうちでもとりわけ重要なものだったに違いない。
私たち人間は、互いにほとんど違いのない(髪、目、耳、口、鼻、眉毛が同数、顔のほぼ同じ位置に配置されている)顔という身体パーツ上に、顔表情や視線、顔色という手段を介して、意思や意図、感情や健康状態といった実に複雑かつ多彩なメッセージを込めてやり取りをし、その後のふるまいや態度、行動に機敏に反映させる不思議な能力を有する動物である。不思議というよりこれは、犬の嗅覚や鳥類の視力同様に驚異の能力なのだ。
そうして考えてみると、マスク着用が半ば義務化常態化し、会話も極力控えるような生活が日常となっている今のコロナ禍の社会において、言葉のやり取りが減る事に加え、相手の表情をうまく読み取れないことで感じるストレスとは、案外私たち人間の根源的な欲求不満なのであろう。
とりわけ幼児・児童の健康な情動の発達や対人コミュニケーション力などに悪影響が及ぶのではないかとの懸念は十分傾聴に値するかもしれない。なにしろ、先に述べた私たちヒトの驚異的能力発揮のベースともなる顔や顔色の大半が覆い隠されてしまっているのだから。
ところで、そんなマスク着用が常態化するなかでの一対一のカウンセリングがはたしてうまくいくのだろうか、という懸念を当初抱いていた私だったが、カウンセリングを重ねているうちに少し考えを変えるようになった。なぜなら、相談者がマスク着用によって無理に顔表情を作らなくて済むとの無意識の安心感ゆえなのか、かえって眼には自然な自分の内から沁みだしてくるなにものか、切実な真実が映りこむようにも感じられるからだ。
顔表情全体は豊かな情報を込められるが、そこにはある種のノイズ(真実とは別の構えや守り)もまた混じりやすい。そういった意味で顔表情がほぼ眼にだけ集中されることは、カウンセリングという特殊な場においては逆に良い方向へ働く場合もあるのかもしれない。
そして、眼に注意を向けるその効果なのかどうかはっきりとはしないのだが、最近、「この人の眼はどこかで見たことのある眼だ」という既視感覚を覚えることがしばしばある。当事者の性別や年齢、体験や症状などに共通するものも見当たらないことも多い。たとえば過食性障害に悩むある二十代女性の眼は、不安障害と抑うつ症状から度々職場を転々と変えざるを得ない50代男性の眼とどこか似ているとある日思い当たった、などというように。
全くの個人的主観にすぎないのかもしれない。だがたとえばトラウマ体験の記憶は、とてもしばしばいつまでもリアルで生々しいものだ。その映像は本人の眼にありありと映ってきたはずである。心が負った深い傷の痛みのメッセージは、止まらない出血のように無意識に眼から沁みだすものかもしれない。人の身体機能は加齢とともに衰えていく。眼もまた同じだろう。けれども眼が発する心のメッセージだけは年齢も衰えも、そして過去もない。
その眼は半分閉じられ、瞳は昏(くら)く、とても美しかった。多くの苦悩を見てきた老人の眼。だが、彼女自身はとても若い。
ゴッホは眼のなかに人の魂を見た。
性格や人格、精神状態は「顔に出る」とよく言われる。だが、最もよく出るのは「眼」なのだと思う。表情は作ることも取り繕うこともできるが、眼はそうはいかない。眼はどこか真実を語りたがるのだ。

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