お叱りの言葉を、風船に乗せて。
20代の半ばだった頃、ずいぶん年上の方に
言われた言葉がある。
「尖んがった風船はその尖んがりから 萎んでゆくこと
ぐらい知っているよね」と。
その言葉の放つ強さとはうらはらに、低いやさしい声で。
わたしはあまりに遠い気持を運んでくるそのことばを
耳にしたとき。
ちょっといやすごく、いやな感じがしたのかもしれない。
ずいぶん年の離れたひとから云われたそのことばは今も
こころのどこかに残っているらしく、すこしくすぐると
するすると憶い出してしまう。
じぶんが、ぱんぱんにふくらんでいたあのなくしてしまった
風船のようだったのかと。
すごい生意気な感じがする。
生意気だったのかもしれないけれど。
それからずいぶん経ってから、いつだったかわたしは
ちいさな映画館で竹中直人監督の『東京日和』を
観ていた。
写真家の荒木経惟さんと亡き奥様との日常が描かれた
映画だった。
隣にすわっていたのは、背広姿のおじいさんだった。
背筋をすっくと伸ばし、ステッキのてっぺんに掌を
上下に重ね、スクリーンに視線を送っている。
映画は、一番近くにいるたいせつな他者への言葉に
できない苛立ちや愛しさや不安などがいっぱいに
詰まっていて、夫婦のせつないドキュメンタリ-が
物語として描かれていた。
物語として片づけてはいけない、機微がそこにはあって。
夫婦になったことのないわたしは、こんなにやるせなく
失ってしまうのなら、はじめから誰とも出会いたくない
そんなことさえ想っていた。
エンドタイトルが終わるまで、席を立たずにいたその
おじいさんを隣に感じながら、わたしもずっと
そこから離れられずにいた。
そして、その日の真夜中。
なみなみとつがれたグラスの水を見ていた。
あふれそうであふれずにいる。
いっそ、こぼしてこわしてしまいたいような
ひっそりと息をこらえて維持していたような。
誘惑に満ちた<表面張力>を見ていたら、不思議に
あの日、わたしが投げかけられたことばの
もうひとつの意味を感じた。
尖んがっている風船。
それはわたしひとりのことではなくて。
彼自身が、かつてそうであったことをプレイバック
するようにしてわたしに放ちたくなってしまったの
かもしれないことに気づいたのだ。
かつて風船のとんがった日々のかけらを彼はその頃も
まだ心のどこかに持ち続けていたのかもしれない。
そう思うと、
二度と出会うことはなかった、あの映画館で隣あわせに
なったおじいさんはどうなんだろうと重ねるような
思いにかられた。
おじいさんにもあったかもしれない、とんがった風船な
若い頃。
すると、なぜだか目の前にある<表面張力>ってかなしい。
なんてことばがうっかり浮かんできてわたしは
せつなさを追い出すように
そのグラスの水を飲み干してみたくなっていた。
これは、昔のわたしの日記です。
むかしの日記をひもとくと、必ず知っているような
でも名前が思い出せない誰かにであったような
そんな気がする。
ほらねって 指をさす空 月満ちている
風船の だきしめかたを 知りたくなって
いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊