パソコンの不具合って、ふられた時の気持ちに似ている。

昨日はnoteを書いていてのに

記事が消えた。

わたしの不具合のせいかもしれない。

だめなりに、でもそれなりに好きなものが

書けたと思っていたので、席を外したすきに

記事が消えていたことを知った時は、

亡き者を探すように探した。

どこかに紛れてるかもしれないと。

雑踏ですごく似た人の後ろ姿とか

会話にまぎれて聞こえてくる声に

すごく見覚えがあるって思った時に似て。

面影を探した。

でもそれはうっすらとした記憶の中に

しかなくて。

昔も同じようなことをしたことがあった。

noteじゃなくて他の場所で書いていた時。

あれは1月のある日のことだった。

それまで書いてきた文章 などを、失ってしまった。

そのことを十分に把握するまでに、 1日以上

かかって、受け入れるまでに さらに、1日

かかったような気がする。

Web上に、わたしの文章は確かに存在するのに、

もうそれはわたしではないような気がする。

この間YouTubeで過去の自分は別人だと

想っているっていう火鍋を食べながら

そう話す不思議な魅力の人がいたけれど。

全くそれに近かったかもしれない。

それだけで、 からだがぽかんとしてしまうような、

 気分の数日を過ごしていた。

その時はカスタマーセンターに電話した。

待っている間の曲が、ボブ・マーリーの

 「ワンラブ」だった。

歌声が耳の中を通過した。

なんともいえない懐かしさが甦ってきた。

せっぱつまっていたはずなのに一瞬、

 はりつめていたものがゆるんでゆく。

よりによってパソコンがおかしくなった

時に好きだった人が歌っていた好きな曲を

聴かせないでほしいと思いつつ。

指で書いていたことは、なんだったのかなっ て。

じぶんのすべてのような、ほんの一部の ような。

でもこの感覚は文章を失ったからではなく て、

失う前もよく知っていたことを思い出す。

なにかを書くということのその最中でさえ、

 ひとりどこかに放り出されたような、あの

 茫漠とした感じ。

「味わうどころか、落ちつかない寂しさと、
書き上げた後の空虚感」


講演でそう語っていたパトリック・モディアノ。



そういう気持ちがわかるというのは、

 おこがましいけれど海の向こうで生きる人が

 似た感情を持ちながら、暮らしていることが、

 とてつもない力になることを感じた。

文章の神様みたいな人でもこしらえたものは

からっぽなんだと 思ったら、わたしがそれを

失ったからって、ねぇと この感覚を面白

がろうと思い直していた。

そしてさっきDELLが壊れた。

しばし黙っていた。

なんど強制終了してもだめだった。

昨日は記事をなくし、今日はパソコンに

そっぽを向かれて。

そして偶然だけど、昨日はどっちかが先に

死んだら残されたものがそのパソコンを

処分するというエピソードが綴られていた

小説の感想文を書いていた所だった。



いよいよさよならかなって思って

傷の手当てをしたあとすこし放電して

放置していた。

さよならにまだ慣れていないことに

気づいたし。

noteって身体の一部、指の一部みたいに

知らず知らずのうちになってるって

そんな気持ちになっていた。

パソコンをログアウトしたときとは

まるでちがう、ぽっかり感。

いつもいた君がいないようなあの感覚。

それって、生まれてはじめてこっぴどく

ふられた感じにも似ていた。

拒まれるの承知でまた1時間ぐらいして

ねぇねぇって電源を入れて見たら

さっきとは違う景色が映っていた。

生き返っていた。

しゃーないなって思ってくれたのか。

いちどふられたから、もう弱みを

握られているのだけど。

立ち上がると、なじみの景色が

そこにあって、もうすこしだけ一緒に

いてほしいっていってるみたいな

感覚でふたたびキーボードにいま

触れている。

なんとか今日書き終えることが出来た

ことに感謝です。

 

うつろって うつろってゆく あの眼差しが
さかさまの しじまの庭に 積もる言葉は







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