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noteはじめたきっかっけは、リベンジみたいな気持ちだったはずなのに、なんでかな? 笑ってもらいたい自分がいることに気づいた。note60何日目か。

note書きたかったほんとうの理由は、もしかしたら。

ちょっと、むしゃくしゃやん。

今のきもちを、このまま放置していたら相当ひどいことになるよ、わたしみたいな感じだった。

これが書きたかったからかもしれない。

ほんとうは、変な動機だった。子供じみたというか、ちょっとしたリベンジしたいとか。生々しすぎるモチベーション。

note書いていらっしゃるみなさんのきっかけってなにかあるんだよなって、

つらつらと思いつつ。

わたしの場合。

書くで。書くで、あのひとのこと書きまくったるで。

ってな感じで。

あの頃、いろいろ言いたいことがあって、一番言いたかったのは、最後の
マウントとられた時のことで。

ほんまにちょっとした人格否定だなって、仕事仲間というにはキャリアの差がありすぎるけど。

認知度もダンチだけど。

でもいっしょのチームだよねってかなり、小走りでこっちは走っているつもりで、それなりに受け入れられているつもりだったから。ショックだった。もういちど再録すると、いま、傷口に塩ぬりますわ。

あなたがこの場にわたしと共にいることが、あら珍しい

みたいな感じのニュアンスでした。

ぜったい書きなぐって、すっきりしたるねんみたいな気持ちでいたのに。

でも、note書き出してみたら、笑える方向に行ってしまって。

なんで? なんでなんかな?

これってnoteのせい? noteの本来持っている、明るい場所へみたいなそういう性質ゆえ? わからんのですけど、ほんまに。

日々わからんことばっかりで。これもnoteのせい?

なんか初めて好きになったタイプの人っておるやんか? 
そんな感じになってますよ、めっちゃ翻弄されてるわ、noteに。

で、本題もどります。

いっつもそうやねん。先生にもすっごい退学になるんちゃうの? 発言みたいなことも、ぜんぜんすべってしまって。

叱られるどころか笑われてしまう始末で。陽気なお勉強のできない子みたいなスタンスになってしまう。

あんなに傷ついたはずなのにさぁ!

noteに書き始めると、なんていうの? こういう風にめっちゃラフになって。
そんな、あんた傷ついてへんのとちゃうの? ってニュアンスがばんばん匂ってくる訳です。

ま、書いたことで。方向性は違えどもそれはそれで、じぶんの心が浄化というか昇華したのでよいのですが。

その頃、つまり大御所のとあるご老齢のとあるご婦人から言い放たれた言葉がいつまでも頭の中で巡っていた時の、どよよよんとしたあの日の日記を再録してみました。

びっくりすることに、これはなんとか大阪弁を使ってはならぬ!というルールの下で、書いています。始めてみます!

 😿 😿 😿 😿 😿      😿 😿 😿 😿 😿

なにかを包みなおすようなしぐさがずっと続いている。
そんな意識に取り囲まれているような。
猛暑のなかで、それでもじぶんが生きる前から、生き抜いてきたひとたちのことを考えたり思ったりしていると。
たくさんのことにぶつかってしまって。

そのたびに、わたしはなにかを包みなおす行為に耽っているような気持ちに駆られる。

それはわたしの今の心の状態の、靄のかかったようなフィルターで物をみているせいなのかもしれないし。どこかでもっと酷いものを目撃してただただじぶんを俯瞰してしまいたいだけかもしれない。

いまの立ち位置からなにかを見る時の、限界のようなものを感じながら、
でもそこに寄り添うということは、ほんとうは偽善なのかもしれないと、
こころの中がいったりきたりする。

すこし、時間が経って、「フィオナ・タンまなざしの詩学」という展覧会の切り抜きをみてる。
去年行きたかったのに行けなかった都写真美術館での作品展。



「浮遊しているのか?」「抱えられているのか?」

そんなタイトルの動画から始まったらしい個展。

そのことばのつらなりと同時に、モニターらしき写真をみているだけで、なにか遠くのものを想像してみたくなる。

いまみている世界がほんとうは、となりで見ている誰かと全く同じ世界だとはだれも言い切れないと、突きつけられているような、そんなことを勝手に
夢想したくなる。

フィオナ・タンの作品を目撃した記者の言葉によると、

<少し見ていると言葉と映像は一致しているようで、ズレている。>

と記されていた。

今歩いている道は帰ろうとしているのか、戻ろうとしているのか。

こういう問いが、生まれてくること自体、たぶん今、歩いてきた道への懐疑する気持ちが芽生えている証拠かもしれない。

ただ、そんな気持ちになるような体験は、時には必要な気がしてくる。

どこかこの道がまちがっているかもしれないと思う。
そう思うことも時には必要なのかもしれない。

誰しも、みんなあなたの通って来た道は、回り道じゃなかったよって言ってもらいたいだけなのかもしれない。

わたしはいますごくたぶんみっともないほどに、そういう言葉だけを耳に閉じ込めたいのだろう。

ねぇって。

網戸にくっついたまま声をふりしぼる蝉の羽のふるえに、みとれつつ。

きみのように今泣けたら、らくなんだけど、泣けないし。
あまりにいろいろ酷すぎて、泣き方を忘れたんだけどって
蝉に言ってみる。

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蝉が鳴く 渇いた夢の 午睡の端で
宛先を 書き忘れてる てがみのような

こんなひとりごとに今日もお付き合い頂き感謝です!

ほんまにほんまにありがとう!です。


いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊