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長旅を終えたような

3年半付き合った恋人の家に荷物を取りに行ってから1週間が経った。

リュックいっぱいに詰め込んだ荷物はほとんど衣類だったから、パンパンに膨らんだ割には軽くて、なんだかそれが面白くて笑えたから「軽くてよかった」と思った。雨が降りそうな曇りの日だった。

初めての恋人、初めての恋愛だった。

楽しかった
”楽しい”をするには最高の3年半で、お互いにとって良い相棒だったと思う。

恋人と別れることも初めてだったから「別れ話ってどんなだろうなあ」と想像することはあったけど、いちゃつきながら朝方までゲラゲラ笑うプランはなかった。親友に話したら意味わかんないと言われたし、自分でも意味がわからないなと思った。でも私たちらしいと嬉しかった。久しぶりに、ふたりでいると最強だと思えるあの、感覚になった。

でもゲラゲラの次の日は泣いた。手を繋いでラーメンを食べに行ったけど、これはもう離すことが決まってる手なんだと思ったら泣いた。
そこは自分もありきたりな女だなと思って悔しくて、悔しかったのでそのまま逃げるように帰った。


もうひとつ悔しいことがあって、自分が別れるより先に「花束みたいな恋をした」が世間に公開されたことです。おかげでひとに話すと「花束みたいな〜だね」と言われたりする。
あの映画は好きだけど、そう言われると一般化しないでよおお!と叫びたくなる。大人だから叫ばないけど、心の中でそっと舌打ちをする。

はい、ということで晴れて私も花束みたいな恋をした女です。どうぞよろしくお願いします。


映画の序盤、麦と絹がたまたま同じカフェに居合わせる場面の台詞がある。
「恋愛は、2人でひとつじゃだめなの。1人にひとつずつじゃないと。」

若いカップルがイヤホンを片方ずつつけて、一緒に音楽を聴いているのを見た2人の台詞。2人はそれぞれの新しい恋人に同じことを力説する。イヤホンで音楽を聴くとき、それは両耳で聞いたとき最高のバランスになるようにミキシングされているから、片方ずつだと本来の音ではないし2人の間で聞いているものも微妙に異なるらしい。

たしかに、パピコは1人ひとつずつ食べられるところがいい。同じ味のものを誰かの隣で食べる喜びと、自分の分を自分のペースで食べることができる安心感がある。

でもひとつのアイスを2人で分け合うのも私は好きだ。好きな人と食べるときほど。ふたつ買うときも相手と違う味にする。どちらかが2番目に食べたい味にする。はんぶんこする前提だから。

おいしいものって独り占めしてたくさん食べたいと思っちゃうし、分けっこする時って独り占めしたい気持ちと相手が同じくらい食べられているか気遣う気持ちのせめぎ合いみたいなところないですか?私が食いしん坊なだけ?それでもあえて2人でひとつをしたくなるのは、自分より少し多めのひとくちを相手に掬ってあげたり、ほんとは食べたいくせに言ってくれる「残りぜんぶいいよ」の優しさに甘えるのがすごく幸せだからだ。


この3年半を思い返す。
友情と恋愛はなにが違うの?
そう問うあの日の私に、今答えるならどうだろう。
「互いの幸せを一緒に背負えるかどうか」だろうか。
丸ごと食べたいアイスを分けっこして、自分の分が減ることさえも嬉しかったから一緒にいた。


元々私はしょうもなく卑屈で、自信がないのに自己愛は強い、転んだ時差し伸べられた手を掴む勇気もないような人間だった。
彼が時間をかけて私にたくさんの「大丈夫」をくれたから、私は自分が大丈夫だと思えるようになった。力強く手を引いてくれるような人ではないけれど、一緒にしゃがんで待っていてくれる人だったから、私は少しずつ自分で立てるようになった。

大丈夫じゃなかった当初、大人ぶって「1人にひとつずつ」の恋愛をしようとしていた。
「絶対とかじゃない、いつか別れるかもしれないけど」
自分にも周りにもそう言い聞かせて、相手と自分を混同しないようにしていた。所詮は他人だしずっと一緒にいられる保証なんてないと、境界線を引いて「仕方ない」の準備をしていた。
なるべく傷付かないようあんぱいに生きる方法としては模範回答だったのかもしれない。

「所詮は他人」「期待するな、求めるな」「ひとは変わらない」
どれも”結局”という枕詞とセットでよく耳にしてきた。恋をして、恋を失った恋愛の先輩たちはみんなそう言う。みんな少し遠くを見ながら言う。

時間が経つにつれて、
「ずっと一緒にいられる保証はない」が
「(この気持ちが続く限りは)ずっと一緒にいられたら」になって、
「(色々乗り越える努力をしながら)ずっと一緒にいたい」になった。

トゲだらけの鎧を1枚、1枚と脱いだ。防御しなくても、距離をとらなくても、大丈夫なんじゃないかと。それをひとは”まるくなった”と言うのだろう。小さな傷が付く度に、むしろもっと薄着になろうとした。諦めたくなかった。ちゃんと信じよう、ちゃんと努力しよう。そうすればきっとうまくいく。あいみょんも恋なんてしなきゃよかったと歌うわけだ。裸で怪我をしたら、その分痛い。

胸がつかえるたび自分に問いかける。多分この先もしばらくは。ねえ私失敗した?って。どこでどうすればよかったの?私の心のパンツを返せよと思ったりする。でも何度考えても、巡る思考が行き着く先はいつも同じ。
これでいいはず、今の自分の方が好きだ。薄着で挑めるようになった自分が。

これから先も、好きな人とその未来くらいは信じてしまうと思う。飲み屋で遠い目をして「結局、」と話す日があったとしても、私は諦めきれないと思う。あの子たちもそうだったんじゃないかな。なんとなくそうだといいなと勝手に思ってしまう。

変わりながら一緒にいたかったな。
今は休もう。1人でアイスをドカ食いして自分を取り戻すんだ。


私にとって、少なくとも今までの私にとって、恋人は愛の保管庫だった。そうあってほしかった。愛の確かな置き場所がほしい。安心して預けられて、必要な時に引き出せる。自分も相手にとってそうありたいと思っていた。

それは独り善がりだろうか、弱いだろうか。ひとに愛を求めているうちはだめでしょうか。きっと、だめなんでしょうね。

絹ちゃんはなんて言うだろう。頬杖をついて「それはまだまだ若いねぇ」って言うかな。いやーうるさいなあ、あんたこそ自分のやりたい仕事否定された時点で別れなって。

でもそうだな、私は未熟だ。まだまだ未熟で、1人ではいびつで、欠けてる分を誰かに埋めてほしいなと思ってしまう。それは理想の自分、理想の恋愛とは掛け離れているし、少し情けない。いつか私の愛の総量が増えて、保管庫なんていらなくなった時、あるべき姿の「1人にひとつずつ」ができるのかもしれない。

でもそれまでは「仕方ない」も「そんなもんでしょ」も、もうできるだけ選びたくない。大切な人にも選ばせないような自分でいたい。私たちの恋愛や人生は、仕方なくもなければそんなもんでもないはずだよ。

私と彼は頑固で諦めが悪い。そんな自分がお互い好きだと思うから。
だから、2人が諦めないためのさよなら。今のところはこんなキャッチフレーズで綺麗にまとめてあげよう。

ただひとつ言わせてよ。
あなた「君のいちばん良い時期を〜」って言ってたけど、そんなわけないでしょう?
綺麗になっていく私を、どうぞこれからもちゃんと見といてね。


信号待ちで立ち止まった時、きっとたまに思い出す。
レインボーブリッジを歩いて渡ったこととか、マレーシアでスーツケースを捨てたこと、買ってくれたなめらかプリンの味や、数々のはずかしい喧嘩。

そんで少しにやにやして、また歩くと思う。

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